’04.9.17〜18「数学教育論」研究会用資料 数“楽”・“戯”術を子どもの遊びに

数学活動の知的サイクルで構成する学習

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1.インターネット配信した講義のねらい   数学が次第に抽象的思考の領域に入り込んでゆく様子はまこと   に印象的である。数学はその上で、具体的事実の分析という重   要な役割を果たすために、地上に戻って来る。・・・ここに、   具体的なものを攻略するための武器が極度に抽象的であるとい   う、パラドックスがある。            N.A.ホワイトヘッド『科学と近代世界』   教材『犯人あてマジック』と『ハノイの塔』の講義において私は二 つの意図を込めている。 第一は、二つの講義には、ホワイトヘッドの数学讃歌の体験が組織 されている。簡潔に要約すると、教材に動作や行動を知的に適用し、 数学の論理に導き、そのようにして獲得した数学の諸形式を具体的事 象の解析に適用する、というもの。 数学する  実は、これは心理学者が「両者の結びつきからあらゆる人間知能の 進歩が生まれる」という、具体的事物に抽象概念を適用することを特 徴とする「論理的知能」と、実用的知能とも感覚運動的知能とも呼ば れ、外界の事物に動作や行動を知的に適用するのを特徴とする「工作 人的知能」という二つの知能の相互扶助の関係を、「学び=教え」と 結びつけたものですが、これはまた、かって一世風靡したブルーナー の学習理論『構成主義的スパイラル方式』の子どもの表象構造の発達  運動的表象 → 映像的表象 → 記号的表象 三段階説を下図『数学活動の知的サイクル』で捉え直し現代的にアレ ンジしたものです。 数学する 私は、さらにこのアレンジによって人間の系統発生的な認識過程と、 個々の子どもの個体発生的認識過程を「教え=学び」の中に構成する ことによって、現代版「数学教育現代化」のあり方・可能性を二つの 教材構成で体験させています。これが第二の意図でした。つまり、ブ ルーナーの三段階説は、アレンジすることによって子どもの表象構造 の発達段階説だけではなく、短時間で数学の概念・方法の「教え=学 び」を三段階で構成することができる、としたわけです。 2.私の『数学教育論』の幾つかの観点   学校数学では、幾何学的直観、物理的直観、sense of fun   (オモシロサがわかること)が3つの基礎的成分であって、第   4の成分、厳密さの感覚というのはひとりでに育つだろう                          ジーマン  かって、アシモフは、パソコンをして、従来の定められたカリキュ ラムに従い、それを義務として遂行し、学ぶ者を受身にせざるをえな かった「教育」を、好奇心の所産であり、創造につながる本来的な意 味の「学習」という行為をその利用者に無意識のうちにさせてしまう 「新たなる学習の時代」を招来ツールと高く評価しました。ここでア シモフが高く評価したのは「パソコンによる学び」ですが、私は、こ こでの核心は、受け身を強いる「体系的で綿密な教育カリキュラム」 は、好奇心の所産であり、創造につながる本来的な意味の「学習」に つながる「自由な探求」とのバランスが不可欠と捉えます。つねに、 このバランスを考慮しなければ、子どもをはじめ、学ぶ側に味気ない 想いをさせるからです。  課題は、この「自由な探求」を伴うことをどうすれば実現できるか ということです。少なくない教師や大人は、実際的・経験的問題や量 的問題、図形問題を与え解かせることで実現できると考えがちですが、 子どもたちはこの種の問題には大人たちの想いとは裏腹にいつも好意 的とは限りません。私の授業経験を含め、そうした授業風景に出くわ してきた私の結論は、その「学び」が「彼らにとってリアリティ(実 在感・現実味)」を伴うものとして組織されているか否かにかかって いるということです。リアリティを伴わない実際的・経験的問題など の学びは彼らにとって退屈でしかないし、こうした有意味なリアリティ を伴わない「楽しさ」や「面白さ」も一過性で終わってしまう。逆に、 実際的・経験的問題でなくても、有意味なリアリティを伴うものであ れば探求心を旺盛にする場合もある。 1) 人間精神形成の一翼を担うものとして  インターネット配信した「『犯人あてマジック』と『ハノイの塔』 から数学へ」の拙講はそうした具体例として学生に提示したものです が、誰にでも通用する「リアリティ(実在感・現実味)」の定義づけ は難しく、私は、これは数学教育単独で解決できるものではなく、以 降に述べる教育観や学校教育観、そして数学(教育)観の総体として 教材づくりをすすめなければならない「数学教育」独自の課題と考え ています。  これが『数「楽」、「戯」術を子どもの遊びに』という本稿テーマ の主旨で、そのこころは、学ぶ側の、面白さがわかる(sense of fun)、 不思議感(sense of wonder)の気分感情を大切にしつつ、数学的な sense of fun、sense of wonderを体感させ、もっと高度な認識にチャ レンジさせることにあります。  現在、どこの文明国でも、知能を高めるためとか、産業を振興する ためとか、進歩を確実にするためとかという目的で教育を行っている。 ところが現在の教育の内実は、子どもたちを、競争の激しい分裂した 社会に適応させようとしている。攻撃本能はすばらしい機会を与えら れている。が、その攻撃本能は、他の子どもたちに向けられている。 席次と成績と進級のために、休むことを知らない闘争を続けさせられ ている。つまり、われわれは人間に差別をつけるためにー分裂させる ために教育をおこなっているのである。こうして、われわれのすべて の努力は、社会の分裂をつくり出すために費やされているわけである。  まるで今の日本を指しているようだが、かく批判したのは 1949 年当時の芸術家で教育者であったH.リードでした。 そこで彼は、世界の教育の状況は、ペスタロッチの   人間と人間との、心と心との接触によってのみその人間性の真   価を成長させる ことを教育の目的にすることにほど遠い、と彼は   社会の結合、社会の訓練、社会のモラールこそ、教育の目的で   あり、あるいはあるべきものである と、攻撃的あるいは破壊的本能を無害なものにするために、   教育は、感覚や手足や筋肉を通して流れ出るもので、はじめか   ら抽象能力を通して行われるべきものではない                          『エミール』 というルソーの教育方法をさらに押しすすめ、   教育は、芸術による教育であり、体育による、あらゆる種類の   創造的な遊びによる教育でなければならない。(中略)絵画を   みるよりはむしろ絵を描かなくてはならぬ。演奏会へ行くより   は、楽器を使って遊んだほうがよい という「事物によって教育する」こと、これと「人々を分裂させるの ではなしに、結びつけるように教育する」ことの二つの原則を不可分 のものとして提唱した。なぜなら、   ひとりの子どもが、独力で、物を支配し操作する、その成果は   知れたものだ。(中略)彼はやがて、協力と互いの助け合いが   できたときにはさらに成果をあげ得るものだということを発見   することになろう          『平和のための教育』                      また、知識を非個人的なものにしようという現代文化の傾向が、事実 を価値から、科学を人間性から引き裂いてしまった、と批判するM.ポ ラニーは、主観を排し、客観的な知を確立するのを科学の目的、とす る従来の科学論と知識論に対し、「科学の超然性という客観主義的で 非個人的な理想は有害極まる誤謬の源ともなる」とすべての理解の行 為における知る人の個人的関与に注意を払うような理想を対置した。   人間が知識を発見し,また発見した知識を真実であると認める   のは,すべて経験を・・・能動的に形成,あるいは統合するこ   とによって可能となるのである。この能動的形成,あるいは統   合こそが,知識の成立にとって欠くことのできぬ偉大な暗黙的   な力である        『暗黙知の次元』『個人的知識』 2) 学校教育の一翼を担うものとして     知識と情報を特権層に独占させてはならない、できるだけ多く   の人々に共有可能にさせるべきだ。そのためには、学校という   装置をはじめとする諸制度でもって、訓育の道具と化した教科   書の知識を押し付けている状態を、『みんなで一緒にいきいき   楽しい』(conviviality)ものに変えなければならない              イリッチ『Tools for conviviality』  今次指導要領(「ゆとり教育」、「総合的学習の時間」)の実施を めぐり教育内容と学習時間の多寡でせめぎ合っていた。  今回の学力論争を私はこのように醒めた眼で見ていた.なぜなら、 彼らの視野にあるのは国や産業界のための手段としての“教育”であ り、学ぶ側の“学び”を目的とさせるのではなく、手段とさせてしま う日本型“学び”社会の改革の視点を欠いていたと思ったからです。 この視点に立つならば、いまの教育をめぐる課題の緊急性、焦点化し なければならない課題が何処にあるかを視る視座は自ら違ってくる。 “教科学習と総合学習のあしたを紡ぐ”作業を日々行わなければなら ない教師にとって、緊急の課題は、これまでの教育が、「在学時代は トップレベル、社会人になると最低レベル」(OECD“科学技術意 識”報告)という、青少年全般にいずれ“剥落する学力”を一律に形 成する「日本型高学力」の形成状況を改善し、終止符を打つ新しい学 習と創造のスタイルならびに具体的な教育内容の提示にあり、展望し なければならない課題は、学ぶ側の“学び”を目的とさせる教育を保 証する国民重視社会への改革にあると私は考えます。  教師になって約10年の30年程前、「数学」の前で立ちすくむ大量 の生徒を前にした私は、詩人シラーが   人間が、言葉の完全な意味で人間であるとき、彼はいつでも、   遊ぶ人間である。そして遊ぶときにこそ彼は完き人間となって   いるのだ           『人間の美的教育について』 とまでいう「遊び」に興味をもち、関連する本数冊を読みすすむうち、 単なる遊びと考える「遊び」観は変える必要があると感じた。そして、 シラーは、労働もまた、遊びと学びと同じ関係にあることを説いてい るが、驚くほど多くいる遊びの研究者のほとんどが、働くことと学ぶ ことが嫌々に行う強制された行為になっている現状を、喜びと楽しみ との源である「遊び」と固く結びつけたいと努力している。そしてそ れはまた、学ぶ学生や働く人々の少なくない部分が、そこから急いで 解放されたい拘束・苦役であるかのように気晴らしを「遊び」に求め ている、この歪んだ現代の「遊び」観をも是正しようとするものでも ある。  こうして、「遊び」をめぐる思索の私の結論は、リードの言わんと する「創造的な遊び」を俗にいう「遊び」と区別するために、バタイ ユのいうconsummation 「(生命を)充溢し燃焼しきる消尽」(『呪 われた部分』1945)を伴うconviviality な遊びと考えた。なぜなら、 リードが、「農民は攻撃的でない」のはなぜか考察した結果、「農民 の肉体と精神とは、自然界の毎日毎日の移り変わりのリズムと一つに なっているから」であり、また、「彫刻家や画家達もまた、破壊的な 衝動をあらわそうとする欲求を持ち合わせていない人々」で、それは 「手を使って素材に形をあたえ、操作をして創造的な活動に従ってい る」ことによると結論していることと符合する。このような例は現代 にもある。「聴く人、歌う人に深い安らぎを与える花や木が出す音を 聞こえるままに音楽で伝える」『癒しの自然音楽』(リラ研究グルー プ自然音楽研究所1996) であり、カリフォルニア州が教育改革の一 環に一千を超える公立中学に菜園を取り入れている。それは、かって、 荒れに荒れた公立中学校で、菜園づくりとその収穫で昼食づくりを始 め、継続するうちに、子どもたちは少しずつ穏やかになった、という 事実からであった( '98.3.17 朝日・天声人語)。 3)数学教育実施にあたって私の配慮していること  この項は、すでにインターネット配信の講義の中で具体的に教材展 開してきているので、スローガンと世界の数理科学者の特徴的な言葉 を引用するにとどめます(Internet UP分の各項目には詳細にしたLink が張ってあります)。   (1)数学の諸相と形式主義、実際と理論の分離の克服 数学する  右端は、ヒンチンの数学の「建造物」説であって、彼はこれでつぎの ような数学教育の欠陥分析をして見せた。つまり、  図式・記号の羅列に見える抽象・形式主義の数学は、その前で人を立 ちすくませるが、これは、2階と3階の正しい結びつきの欠如が原因。 そして「理論と実際の分離」は、1階と2階の正しい結びつきの欠如が 原因であり、源泉から数学的対象への抽象のプロセスを教えることが大 切であると。私は、ヒンチンとは別の言い方をしていた次のルネ・トム の主張を支持し数学教育の改造に取り組んできた。   数学の教育が立ち向かわねばならない真の問題は、厳密性の問   題ではなくて、「感覚=意味」の構成の問題であり、数学的対   象の「存在論的正当化」の問題である    ルネ・トム (2)数学の知的活動のサイクル (3)科学精神の養成のために   現在の数学・科学教育が権威主義の温床であり、自立した批判   的思想の最悪の敵であることはいまだに十分認識されていない。     この権威主義は、数学では演繹主義的様式をとり、科学では帰   納主義的様式を通して現れる。              ラカトッシュ「数学的発見の論理」 (a)関連性の探求 ホワイトヘッドは、教科書の単元の恣意性を綿密に批判し、学びは本 来、単元間のつながりを学んだり、関連性を見つけることであるとし、 「関連性の探求を省略するいかなる学問体系も科学的たり得ない」( 『教育の目的』)といった。「完成された出来合いの知識を吸収するこ とのなかには、学びの喜びはない」 (b)patternの科学=数学   豊かなアイデアにたどり着くのに必要なのは美的直観である。美的   直観とは、これまでは無関係と思われていたものの間に関係がある   ことを発見すること           アンリ・ポアンカレ (c)『具象と抽象間を上り下りする』抽象思考の形成   ロゴによってしようとしていることはすべて、子供の知的な仕   事と肉体的な活動とを分離するという、古典的な学校の傾向に   真っ向から立ち向かうことです。我々の「タートル」〜道具で   もあり、陰喩でもありますがーこれの本来の意義は、抽象と具   体の間を移行する対象だということで、それで子供は自分の直   観的に知ったことと、抽象的な思考との間に橋を架けることが   できるようになるのです。                                       シーモア・パパート『マインドストーム』   発見を教えることは決して簡単な仕事ではありません。それは   学生に、直観を使い、当て推量や試行錯誤、知った結果の一般   化、知っている結果との関連づけ、代数的な命題に幾何学的な   意味をつけること、測定、その他数多くの工夫をすることを求   めます。・・・数学を作りあげる努力している方が、洗練され   た定理や証明を学習することを求められるときよりはずっと自   信をもつものです              M・クライン   数学を知っているとは、数学をすることができるという意味で   す。つまり、数学的言語をかなり流暢に使うこと、問題をやる   こと、議論の仕方を批判すること、証明を見つけること、そし   てこれが最も重要な活動と思われますが、与えられた具体的場   面のなかに数学的概念を認めること、あるいは具体的場面から   数学的概念を抜き出すこと。こうしたことができるという意味   です。        アメリカ数学教現代化運動への批判 ポリア他75名 (4)誰もが営む日常普段の学びから非日常の数学へ       人は意識的活動をしている場合はいつ何時も、数学的な思考を   行っている。例えば、ハリ−おじさんが結婚式に現れなかった   理由とか、車のトランクに上手に荷物を積み込む方法とかを考   える場合、ある決まった前提から論理的な推論によって、結論   が引き出されていく。そのような推論の過程は、相当に複雑な   ものである。だから、それができる人は誰でも、解析的な思考   を行なえると信じる根拠はあるわけだ。問題は、    そのように直感的に行われる解析的思考を、意識の表層にま   で押し上げて、形式的な厳密さで行なえるようになれるかなれ   ないかということなのだ。          デュードニー  「数学嫌い」が猛威を振るう下、「数学的見方・考え方」を押しつ け、数学を教育用に押しとどめてきた文科省は、今次指導要領で、小・ 中・高一貫した目標は、「数学的活動を通して創造性の基礎を培う」 と謳った。しかし、数多ある「創造性の技法」ひとつを教えるでもな く内実が伴っていない。この数学の目標は、スローガンで終わり、かっ ての押しつけ「現代化」の失敗と同様画餅に終わるだろう。   さまざまな数「楽」・「戯」術と形式的な科学・技術との間を上り 下りする「遊び=学び」を子どもたちに育むこと。これがいま大人た ちに求められているのではないかと考え啓蒙に努めるわけです。 4)教育における「構成主義」に潜む問題  私は、冒頭で、ブルーナーの「構成主義的スパイラル方式」の子ど もの表象構造の発達三段階説を「数学活動の知的サイクル」で捉え直 し現代的にアレンジしたと述べました。  日本の教育課程編成原理と言っていい発達観偏重のスパイラル方式 においても「構成主義」はあるが、それは適切に用いられていないと 須田勝彦(北大)と寺岡英男(福井大)両氏の分析を引用させていた だきました。しかし、「構成主義」には他にもまだ問題があります。  ひとつは、私の講義でも簡単に触れていますが、ピアジェの発達段 階説が持つ問題性の反映として、年齢を基準とするスパイラル学習方 式の理論的基盤を失い、ピアジェの個人的構成主義から「社会的文脈」 「参加」を重視する社会的構成主義へ研究が移っていることです。  いまひとつは、もっと根本的に構成主義の学習観そのものに対する 問題です。その学習観では、学習者は知識を受け取る存在としてでは なく、利用可能な情報などから自ら知識を作り上げるもの(構成もし くは構築する)として理解され、そこで教師は学習者が自ら知識を構 築する際に脇に立って支援する役割を持つものとされる。これは教師 の知恵の伝承をないがしろにすることを意味し、学ぶ者の独善的で恣 意的な、個人主義的な知識構築を大いにもたらしてしまう危険性があ るという指摘です。しかし、この指摘は評価の別れる問題です。  私が行う諸実践は、「構成主義的スパイラル方式」を「数学活動の サイクル」で捉え直し、さらに、「自由な探求」のあり方をめぐって リード、ポラニー、イリッチ、トム、ラカトシュなどの教育論や学校 教育論、そして科学論や数学論などの言説から学び現代的にアレンジ しようとした所以でした。  最後に、このような私の実践を受講で知った学生の報告を引用し終 わる。     様々な根源から始まり,数学形式へ抽象し,そこからまた実践   的な問題へ展開する。それが“過程を見せる”ということなの   だと思う。さらにここでは,過程を見せるだけにとどまらず,   応用へと進んでいった。一旦,抽象を経て,また具体的なもの   へと発展して行く。それが私にとっては新鮮だった。「理解す   る」ということを本当に考えたとき,抽象で終わってしまって   はいけないと思う。抽象と具体を自由に行き来できることが,   「理解する」ということではないかと思うからだ  ここに冒頭に引用したホワイトヘッドの数学が人々のこころを揺さ ぶった喜びや驚きと同次元の体験があると思うのは我田引水だろうか。 ただ、60名中5名位は脱落するので喜んでばかりはいられないが。