「数学(科学)する」ことの評価をめぐって

   数学は考えることを教えるものだという一般に認められている主張は,まだ検証されており
   ません。数学教育は,古いものも新しいものも,生徒に考えることを教えるようになってい
   ず,指導者,つまり先生に従うことを教えるように計画されてきました。・・・・生徒は手
   続きに従い,証明を繰り返すように教えられています。今日,新しい数学のもとでも,生徒
   は定義や証明を暗記しています。
   数学は演繹的にではなく構成的に展開されるべきです。・・・学生が定理を作り,証明をす
   るというように,学生が数学を作りあげなければならないのです。もちろん,実際には,先
   生の助けで再創造しているのです。・・・・      (M. クライン)

 数学活動の知的サイクルで構成主義的スパイラル方式をアレンジして構成する数学教育の実践を提
示しながら、私の数学教育論を展開しているが、同じく「数学する」という用語を用い、ラカトシュ
の『数学的発見の論理』を引用しながらも、「勇気と慎み深さをもって数学的真理を求める『数学的
な議論」に誘われ、数学的な議論の共同体(ディスコース・コミュニティ)に参加していく」という
「数学する」ことを数学教育のあるべきスタイルとする主張がある(M.ランパート『真正の学びを創
造する〜数学がわかることと数学を教えること〜』訳 秋田 佐伯・藤田・佐藤編『学びへの誘い』東
大出版会1995所収)。
 まず、クラインも言うように、「生徒に考えることを教えるようになっていず、・・・先生に従う
ことを教えるように計画されて」きた世界の数学教育の趨勢の下、ランパートの実践は高く評価でき
る。しかし、この編者たちの論考を読む限り、数学史上の数学者たちが、思考を展開したときに水先
案内人、あるいは対象を解釈するための枠組の役割を果たさせたモデル使用や物理的類推の適切な評
価に欠け、それは必然的に、学ぶ者の思考を展開するときの教育的な具象モデルの使用の評価を極度
に低く見る傾向を持つ。
 確かに、モデルや物理的類推が、最終的な数学モデルの段階では後景にひっこんでしまうように、
数学教育でも、いつまでも、具象モデルに止めておくのは正しくない。ここに構成主義的スパイラル
方式における運動的表象である具象モデルを変容して、最高次の数学形式(数・文字・図式など)に
至る「構成」の意義がある。最終的な数学モデルの段階で後景にひっこんでしまう具象モデルが対象
を完全忠実に模写できないことでは確かである。しかし、この不確実である性格は、具象モデルであ
ろうと、最終モデルの数学であろうと変わりはない。
アインシュタインはいみじくも言う、

  数学の法則が現実に戻されても,それは不確実だし,それが確実になれば,現実とは無関係
  になる。             

と。
 数学史上、具象モデルや物理的類推を用いた数学者の典型は、アルキメデスやガリレイだろう。こ
こでは、前者の有名な『方法』を取り上げておこう。

◎アルキメデス、『方法』を語る
  私は、幾何学的命題を、重心に関する力学的考察という手段によって研究していく特殊な   方法を発展させました。この方法は発見的な性格を持っています。という意味は、その方   法は正確な証明を与るものではない、ということです。   多くの定理は、最初にこの推理の方法を用ることにより、私に明らかになったものです。   もちろん、この方法は実際の証明を与えはしませんでしたが、私はのちほど、私の機械学   的方法によって推測した定理を、幾何学の伝統的方法で証明しました。人が、もし前もっ   て問題のある種の知識を機械学的類似を通じて得ていて、何が証明されるべきかを知って   いたなら、その問題に証明を与えることは非常に容易なものとなります。
 ここでアルキメデスが言っていることをブルーナー流の三段階説で言うならば、「運動的表象」に あたる機械学的方法でもって定理にあたる数学的事実を推測・発見し、しかる後、幾何学的命題の証 明を行う(ブルーナーの「記号的表象」)というもの。  現在、私のHPで最もアクセスの多い『タイル de 多面体』はこの「アルキメデスの方法」の有効性を前提に構成しているが、これは、子ども・学 生・社会人の学ぶ人たちの実証的な結果をもとに構成したものです。  先に、「勇気と慎み深さをもって数学的真理を求める『数学的な議論」に誘われ、数学的な議論の 共同体(ディスコース・コミュニティ)に参加していく」ことを「数学する」ことと高く評価する編 者たちが「学ぶ者の思考を展開するときの教育的な具象モデルの使用の評価を極度に低く見る傾向を 持つ」と言ったが、その代表は私の「手づくり数学」を担うひとつである教育モデル「ベキタイル」 も俎上に、北陸地区数学教育協議会実践の『折り紙分数』を「簡易正解算出装置」(岩波書店「シリ ーズ授業3『算数〜分数・式のたて方』1992 P205)と表現している佐伯である。 佐伯は、認知心理学者としてランパート実践を引き合いに「数学する」こととは何かを分析して見せ、 「数学的な考え方」を「数学者の考え方」としてみて、「数学者の日常的実践(everyday practice」 のこととし、すぐれた数学者が「数学」という学問の実践のなかで、世界を「数学的に」とらえ、 「数学的に」問い、「数学的に」納得しようとしているという、そういう数学者の「数学する」営み、 「生きざま」こそが「数学的な考え方」なのだ、として「数学する」ことの教育を考えよ、と宣う。  自然と子どもの中から生まれてくる学びを大切にすることも、子どもとともに「数学する」おもし ろさにひたることを指して「ああ、これが「数学的な考え方を教える」ということだったんだ」と評 価することも反対はしない。しかし、アルキメデスの「方法」のスタイルを筆頭に、モデル使用や物 理的類推を駆使した歴史上の数理科学者の数学活動を「数学者の日常的実践」と認め正しく位置づけ ないばかりか、自分たちの都合の良いものだけで「数学する」ことを定義しようとするのは如何なも のだろうか? 佐伯の他に、「数学の概念・方法」のほかに具体モデルを与え、その操作を強いては、 数学の他にさらに負担を与えるものとする批判もある。しかし、これは構成主義的にいうと運動的表 象と記号的表象を同時並列的に捉えているもので、ブルーナーの「表象の発達」の視点すらないお粗 末な批判の上、幾つかあるスパイラル方式に潜む問題に該当する問題提起でもないので論外とする。     いわゆる認知心理学、つまり、思考というものを愛情や美的感覚についての研究とを切り離し   て理解しようとする心理学の正統理論に対する、広範な疑問がある。                                    シーモア・パパート