本ホームページ名“アナログとデジタルの世界に遊ぶ”で使っている アナログとデジタル というのは下記1)のようにメディアの差異を示すのに使われる 一方、数理科学のデー タの差異を示すのにも使われる。ここでそのすべてを“遊ぶ”対象にするので、その相違を含めまえもって概観しておく。

1) アナログ・メディアとデジタル・メディア 
 人間が社会的に意味のある情報(メッセージ)を他人に伝えたり、あるいは他人から受け取るときに、その情報を媒介
するもの、それがメディア。
 人間の頭脳に存在する「社会的に意味のある情報」である表象や思想や意図は、何らかの媒体がなければ他の人に伝え
られない。
 太古の昔から存在する自然的な媒体としては

   音声や手足を使った身ぶりや表情もそうであった。その後、文字や絵などに発展した。
   それらを運ぶ空気や光や紙やキャンバスなど

もメディアであった。これらを総称して私は アナログ・メディア とする。
 ところが、今日では、文明の利器としての
 
   印刷物や電波であったり、それらを機械的に処理した新聞、書籍、ラジオ、
   電話、テレビ、映画、コンピュータ

等々の仕掛けが、社会の中で占める位置づけが大きくなってきたために、私が総称する アナログ・メディア
 
自然的な媒体である手足や空気や光など

は、総じてメディアという言葉に相応しくないように思われがち。しかし、れっきとしたメディアである。それは、なに
よりも現代の デジタル・メディア もそれから発展したという意味でもこの原初的な自然的な媒体を大切に位置づける
べきである。  

メディアのこうした性格を見るとそれらの悉くが「教育活動の対象」であったと言って差し支えないだろう。さらに、
メディアをつぶさに見ると、区別されて呼ぶのが相応しい2種類に分けられ、「メディア・コンテンツ」と「メディア・
ビーグル」と呼ばれて区別されてきた経緯がある。

メディア・コンテンツ  内容としての情報(メッセージ)を伝える媒体

 ある絵画や彫刻や新聞や書籍や映画などで、いずれも、メッセージとしての一定
の意図をもってその形(形式)が作られるものである。
 その全体に一つの社会的な意味(思想)があるような媒体を作り出す作業は

  「創作」とか「製作」

と呼ばれることが多い。
メディア・ピーグル  情報(メッセージ)を運ぶための媒体(乗り物)

 音声を運ぶ空気や、文字や絵を表現する紙、人の感情を人体で表現する手や顔や
胴や足などは自然的なビーグル。信号を運ぶ電波や回線、あるいはその端末装置で
あるラジオ、電話、ステレオ、コンピュータやインターネットもビーグルである。
 コンテンツとの違いは、その形(形式)が情報メッセージとしての一定の意図と
は無関係であることにある。

 私が担当した大学講義『コンピュータと教育』や学校図書館司書教諭講習『情報メディアの活用』では、コンピュータ
とインターネット、つまり メディア・ピーグル にウエイトを置いて、アナログ・メディアとデジタル・メディアの関
係とデジタル・メディアを“学び=教え”に用いる場合の配慮などについて考えた。

   項 目    アナログ・メディア デジタル・メディア
メディア・コンテンツ 絵画,彫刻,新聞,映画など デジタルな絵画,本,映画など
メディア・ピーグル 紙,手,顔,足,ラジオ,電話,ステレオなど Computer,Internetなど

メディア・コンテンツ はメッセージを媒介するものであり、メディア・ピーグル は、そのコンテンツを媒介するも
のといえよう。メディアというとき一般には狭義の メディア・コンテンツ を指すが、私は二つを合わせた広義のメディ
アを差異を尊重しながらも「アナログとデジタルの世界に遊ぶ」とか「デジタルとアナログ間の思考の階段を上り下りす
る」と両者の 相互補完性 を重視した。

2) アナログ・データとデジタル・データ(粟屋 隆『データ解析〜アナログとデジタル〜(1991改訂版)』学会出版抜粋)
 (略)本書のサブタイトルである“アナログとデジタル”の意味をはっきり定義しておこう.初版ではやや混乱した使
い方をしていたので,読者には迷惑をかけたことと思う.
 実験データを“アナログ・データ”と“デジタル・データ”に大別するのはなにも本書だけというわけではない.著者
をはじめ放射能関係の実験者にとっては,実験データと言えば“カウント数”という言葉で表わされるデータである.そ
れを他の分野の実験データと区別するため俗に“デジタル・データ”と呼び,カウント数でないデータを“アナログ・デ
ータ”と呼んでいる.学会などで正式に認知されているわけではない.だから人によって違った理解のされ方をしている
ことも十分考えられる.
 このような分け方をするのは,便宜上そうしているだけでなく,やはり両者には 本質的な違い があるからだと著者
は考え,両者をはっきり区別して取り扱いたい.だから本書で言う“デジタル・データ”はポアソン分布をするデータで
あって,“アナログ・データ”といったら正規分布をするデータであるとする.とびとびの量だから“デジタル・データ”
と言っているわけではないし,連続量だから“アナログ・データ”だと言っているわけではない.
 温度,電圧,長さのような物理量の測定値は,連続な値をとり,真の値である母平均のまわりに正規分布をすると言わ
れている.そう考えること自体に問題がないわけではないが,それらを確率変数の実現値とみなすときには一応ここでは
定義に従って“アナログ・データ”としておく.
 生徒の身長を測定し,測定値に従って分類することにより標本の分布を出したとする.このときには2.2.2項でも述べ
たように,測定値には幅を持たせて,その範囲に入る測定値の度数を数えなくてはならない.身長xの分布は正規分布をす
るかどうか,いまは問わないとして,その確率密度関数をf(x)とする.測定値xiを中心として凅の幅を取り,その中に
測定値が入る度数をniとすると,niは明らかに整数でとびとびの値をとる.生徒の総数をNとすると,niはNf(xi)凅を母
平均とするポアソン分布になることが証明できるから,“デジタル・データ”として扱わなくてはいけない.
                   

3)アナログとデジタルをつなぐ数・数学
 翻って数学ならびに数学教育に眼を転じると、その世界(特に、数学教育においては)では

   形式が優先すれば活力が失われ、いかに理想主義的な構築物といえども土台として欠かせないはずの人間性が失
  われる。主観が優先しすぎれば、精神の歯止めがなくなる。いずれの場合も、傑作が生まれる可能性は低下する。
ケネス・クラーク
と 絵画 を対象に評論するクラークは そこの 具象(実在世界)と抽象(形式)に関して的を射た評論だと思う。

数 “π”がアナログとデジタルをつなぐものとして位置づく。

右辺は三角関数、つまり波打つ存在です。ところが、右辺に変数を含むにもかかわらず、定数に収束するという興味深
い結果です。
ここからフーリエは三角関数の無限和(級数)の研究を進めて、ついに「任意の関数は、三角関数の級数で表すことが
できる」という結論に達した。

●デジタル・メディアの本当の意義はどこにあるか
〜マルチメディア性 並びに インタラクティブ性とは〜
 現在、コンピュータにしても、インターネットにしても、謳い文句にしているのが、
マルチメディア性、インタラクティブ(対話)性・双方向性などと言われる機能であ
る。
 しかし、コンピュータやインターネットによる対話性・双方向性の実現には否定的
な見解も多い。なぜなら、何よりも教育が、人と人とのリアルタイムのメッセージ交
換という face to face のコミュニケーションが基調(以下、直接コミュニケーショ
ン)であると考えることに由来する。それはまず、コンピュータネットワークが、 
コンピュータネットワークは、僕ら個人個人を孤立させ、僕らに実体験
を見くびらせ、僕らの読み書き能力を低下させ、僕らの学校や図書館の
存在を危うくする
とc・ストールがその著「インターネットは空っぽの洞窟」で指摘し警鐘を鳴らした
ように「個人個人を孤立させ、学校や図書館の存在を危うくする」形で、直接コミュ
ニケーションやそれを育む機関を危機に陥れている一面があること。
次で、コンピュータという電子メディアは、手紙や電話などのメディアを用いたコ
ミュニケーション同様、非直接コミュニケーション(以下、仮想コミュニケーション)
であり、直接コミュニケーションの代替でしかないこと。さらに、いくらコンピュー
タ側からの情報が、文字と数字と音声と映像を組み合わせた「マルチメディア」であっ
たとしても、利用する側ができることは、キーボードをたたいたりマウスをクリック
したり、といった単純な指の作業でしかない、きわめてお粗末なものであること。こ
うした理由から、コンピュータやインターネットによる対話性・双方向性は直接コミュ
ニケーションにおける双方向性・対話性にはほど遠いというのである。
パーソナルコンピュータという概念の産みの親と言われるアラン・ケイは、1984年
以来、文章を公表することや講演を文字に起こすことを断ることが多いという。その
理由は「手振り身振りに情報が含まれており、文字にするとそういったものが剥奪さ
れ、講演と等価にならないので断わる」というである。また彼の文章は、簡潔で美し
く、機知に富んだ比喩で満たされているが、詩的と讃えられる部分は削除され誤訳が
混ざり、彼が表現したかったものとは異なるものとなっていることに懲りたかのよう
に、彼は自分のメディア(パーソナル・ダイナミック・メディア〜通称 ダイナブッ
ク〜)が完成するまで、ほかのメディアで表現することを拒絶しているかのようであ
るといわれている。

ケイの体験と主張は、直接コミュニケーションの重要さと活字メディアの限界につ
いて示唆に富んでいる。しかし彼はいまなお子どもたちと、この限界を超える自分の
“表現のメディア”をアップル社やディズニー社で追求している。それはなぜであろ
うか?
 このコンピュータやインターネットによる対話性・双方向性に対する私のスタンス
は、教育におけるコンピュータやインターネットなどのデジタル情報技術利用のコミュ
ニケーションが、直接コミュ二ケーションと同等の対話性・双方向性が実現できない
からといって否定的な評価を下すのは早計と考えている。それは、遠からず双方向の
診断システムや会議システムによって face to face はほぼ実現する状況にあること
が理由の一つだが、もっと別のことに理由がある。つまり、コミュニケーションとは
もっと多様で、直接並びに仮想コミュニケーションもその一部に過ぎないと考えるか
らである。
 京都大学の哲学者であり詩人でもある篠原資明は、『言の葉の交通論』(五柳書院)
で人の交通(コミュニケーション)は、一方的な語りである「単交通」、互いに通じ
合う「双交通」、拒絶され遮られる「反交通」、そして互いにすれ違う「異交通」の
四つに分類できるとしている。この分類で face to face のリアルタイムのメッセー
ジ交換というコミュニケーションのプロセスを分析すれば、単交通・双交通・反交通・
異交通それぞれが錯綜し作用し合ってはじめて相互促進的なコミュニケーションが成
立するのであって、けっして直接コミュニケーション単独ではない。同様に、論理・
理性的なアルゴリズム方式のプログラムにしても、直観・感性に訴え、はるかに使い
やすくしたインターフェイスとしてのマルチメディアのプログラムにしても、そのプ
ログラミングの過程を検討してみれば、ある時は独断専行の単交通であるが、それは
拒絶・遮るエラーという反交通、そして思いがけない実行結果をもたらすコンピュー
タとの切磋琢磨の異交通によって、思い通りのプログラムやそれ以上のプログラムの
完成に至る。こうした過程の結果として双交通という交通(コミュニケーション)が
成立するのである。
ここでの違いは、一見 face to face かそうでないかであるが、インターネットで
も face to face は双方向テレビによって遠からず実現することを考え併せれば、重
要なことは face to face か否かではなく、つぎのことに目を向ける必要があること
がわかる。つまり、「文字、音声、画像(静止画・動画)などを統一的に扱うメディ
ア・テクノロジー」であったのは映画やテレビ・メディアが先であった。にもかかわ
らず、それらは「マルチメディア」とは呼ばれなかった。
 それはなぜかというと、マルチメディアというときは、文字も音声
0と1のデジタル(数値)情報に還元するデジタルな融合のテクノロジーで
あり、このデジタル情報を自由自在に計算したり、加工することによって、アナログ
的には不可能であった、新たな対話性・双方向性の実現を可能にしたことにある。
この視点に立って、アナログ情報を融合するテクノロジーである映画やテレビを見
た時、そのメディアは、受け手をおとなしく鑑賞させるだけの、単交通を“主とした”
ものでしかなかったのである。
これがコンピュータやインターネットの謳い文句であるマルチメディア性、対話性・
双方向性の内実であって、問題はそれがケイの言う、「コミュニケーション・アンプ
リファイア〜増幅器〜」としての機能を十分に果たしていると見るか否かよってデジ
タル・コミュニケーションへの取組み姿勢は変わってくるのである。
 例えば、コンピュータをお仕着せのソフト利用だけで良しとしたり、インターネッ
トによる諸外国の小学校との交信で「国際化教育」や「情報教育」を行っていると思っ
たりすることなどに現れる。

●アナログとデジタルをつなぐ数“π”

πは乱数だろうか?

  πの数字を見てください。

どのケタから順に読んでいつてもけっこうです。デタラメに数字が並んでいるようですね。このようにデタラメに並んで
いる数を「乱数」と呼びます。

 もう少し詳しく説明しますと、数字がいくつか続いたとき、その次に出る数がこれまでの数に影響されない数の並びの
ことです。

 乱数はサイコロを振つたとき出る目の数や、ルーレットをまわしたとき出る数を記録していくと現れます。(ただし、
いかさまギャンブルの世界のサイコロ、ルーレットは別としましよう。)サイコロを何回も振るとき、前に出た目が何で
あろうと次に出る目には関係しませんね。

 サイコロの場合1から6の数字に限られてしまいます。0から9までの数字で乱数を出そうとしたら、袋の中に0、1、2、3
……、9と書いた合計十個の球を入れておいて、取り出し、またもとにもどすことを何回もくり返すことにします。

 πが乱数かどうかを決定する理論はいまのところありません。
実際に計算してみなければなりません。πは乱数らしいとはわかっていますが、ケタ数を十億、二十億…とのばしていった
ときはどうでしょう? 

実験科学的に興味をそそられます。
 また、1/π、π2、√π、π/√2、√2π……といった多くの数列についても乱数かどうか詳しく調べたいと思っています。



πの乱数としての利用法
もしπが乱数であれば,選挙予想でのサンプリングや最近盛んなスーパーコンピューターによるシミュレーション(模擬
実験,60ページ)などに使えそうです。コンピューターによるシミュレーションでは非常に多くのケタ数の乱数が必要で
す。πは無限に続くので乱数としてとても適しています。たとえ古土100万個の乱数があっても,スーパーコンピューター
なら1毛に100万回ぐらい計算してしまいますから,たった1秒しか卓ちません。今後πがもっと先まで計算され,良い乱数
であることがわかれば利用範囲も拡がるでしょう。



πをシミュレーションに使う
物理現象のシミュレーション(60ページ参照)に乱数が使われる場合があります。この乱数にπを使ったらどうでしょう
か?
シミュレーションした結果が理論で予想される結果と一致すれば,πは実用になる良い乱数とみてよいのではないでしょう
か。このような考え方を「乱数かどうかを判定するための新しい方法」として提案しています。              ・

 理論から導かれる結果をヘリコプターで山の頂上へいっきに登ることにたとえると,シミュレーションは一歩一歩道なき
道を通って頂上へ行くことになります。

 その一歩一歩登っていく道すじが正しければ,ちゃんと頂上へ到達するはずです。その一歩一歩に乱数を利用することが
あるのです。良い乱数であれば頂上へ行けますが,良い乱数でなければ頂上へは行けません。ですからちゃんと頂上へたど
りつかせてくれる乱数は「良い乱数」,そうでない乱数は「悪い乱数」と判断するのです。

 実際にシミュレーションに使う乱数としてπを利用したことがあります。その結果からもπは良い乱数といえます。

          (金田康生『πのはなし』1997東京図書)