「数学」教育と総合的学習の関連
総合学習を教科教育の革新と学校改革のチャンスに
文科省の総合的学習は、教科学習と対立的に捉えているふしがある。なぜ
なら、教科の授業できる内容は総合的学習の対象外とし、環境や情報、国際
化や福祉など教科横断的でなければならないと規制していること。また、教
育史上の総合学習には、教科の内容と指導計画に対して改善や変革をもたら
すフィードバックの働きがあり、互いに補完し合う面があるにもかかわわず、
総合的学習では、教科学習で得た知識を問題解決に適用・生かしその意義を
実感するというように一方向の強調にとどまっている。一方、「総合は基礎
基本の定着が欠かせない」、「総合的学習は学力低下をもたらす」などと批
判する守旧的な学力低下論者たちには、総合的学習を「減った教科の授業に
代えて学力低下を防げ」という乱暴な主張もある。しかし、問題点は多々あ
るにしても、系統性を重視し、分析学習に偏りがちな演繹法的記述の教科書
による教科学習が、形式主義に陥って、教科書に書かれたことをよく理解し、
その範囲で応用問題を解ける訓練を受けた学生であっても、教科書に沿って
思考はできても教科書の範囲を超える発想は容易でない。それどころか、こ
のような教育を受け好成績の学生ほど、教科書に書かれていない帰納的な展
開については理解できず否定すらする。そんな学生を増殖させるのが受験本
位教育である。こうした欠陥が見えた分析的教科学習偏重の改善をめざし、
生活単元学習以来40年ぶりの総合的学習復活と捉えるべきである。
今の教育をめぐる緊急且つ焦点化しなければならない課題は、何よりも、
子どもたちに味気ない思いをさせている硬直した教育課程の問題、定められ
たカリキュラムに従い、それを義務として遂行し、学ぶ者を受身にしてきた
これまでの“教育”を、いかにして好奇心の所産であり、創造につながる本
来的な意味の『学習』という行為に転換するかにある。多くの計画、総合、
構造が要求される綿密な教育課程は、つねに、自由な探求とのバランスを考
慮しなければ、学ぶ者に味気ない思いをさせる。総合的学習そのものも、そ
れと教科教育との関連づけもここに意義があるのであり、各学校は、学校改
革と生徒に相応しい学習の創造のチャンスとすべきである。
「数学」教育における総合学習の展開
「数学」教育と総合学習との関連づけには、昭和20年代の生活単元学習
における歴史的経験を踏まえなければならない。それは、遠山啓が、「生活
経験を理解するために数学の体系をずたずたに寸断して」学力低下をもたら
したと生活単元学習の学習形態を批判し、問題点を挙げつらうだけにとどま
らず、その後、「水道方式による計算体系」や「量の理論」、そして文部省
に先立って「数学教育の現代化」を成功させ、学者・教師・父母を巻き込ん
だ民間教育運動を展開した。運動の影響は1958年新指導要領に早くも現れ、
世界冷戦構造の反映もあったが、「戦後の新教育の潮流となっていた経験主
義や単元主義に偏り過ぎる傾向」があったと生活単元学習を自己批判し系統
重視に転じた。しかし失敗は何も生活単元学習だけでなかったことは、先に
見たその後の系統重視教育の混乱・破綻である。
こうした歴史を踏まえた時、様々な相のある「数学する」ことのうち、こ
れまでの数学教育が、官民を問わず無視してきた次に記す相A,Bが決定的
に大切である。(A) 『次第に抽象的思考の領域に入り込んでゆく様子はまこ
とに印象的、数学はその上で、具体的事実の分析という重要な役割を果たす
ために地上に戻ってくる。・・ここに具体的なものを攻略するための武器が
極度に抽象的であるという、パラドックスがある』とホワイトヘッドに言わ
しめた、ガリレオをはじめ、多くの人々のこころを揺さぶった数学に対する
驚きや喜びの学びを創ること。(B) 『豊かなアイデアにたどり着くのに必要
なのは美的直観である。美的直観とは、これまでは無関係と思われていたも
のの間に関係があることを発見すること』とポアンカレが言った、全く異な
る幾つもの事象の中に、思いがけない同一パターンを見出す“パターンの科
学”と言われている側面である。
このA,Bの相は、概念・方法を分析的に学んだ後の“総合”とか、他教
科と“合科”する意味の“総合”という範疇に納まらない、本来的に総合の
学問といわれる数学の持つ一面である。
「数学活動のサイクル」と「数学」教育づくり
(A)に粗描されているプロセスは,従来から「数学活動のサイクル」(資料
5参照)として知られる。このサイクルで言うと、従来の数学教育は右側の
数学活動に偏り過ぎていたことになる。今次改訂の解説でもこの全サイクル
を提示しており、これまでの指導要領が、?数学的見方・考え方?という曖
昧模糊とした表現を用い、数学教育の数学を?科学?とは別視する?教育数
学?におし止めてきた(この用語を相変わらず使ってはいる)ことからする
と大きな前進である。かって数学者ヒンチンもこのサイクルの変種?数学の
「建造物」説(1階:源泉、2階:対象、3階:言語)?を唱え、これまで
の数学教育が陥っていた、図式・記号の羅列に見せ、その前で人を立ち竦ま
せてきた?数学教育における「形式主義」?は、2階と3階の正しい結びつ
きの欠如が原因であり、「理論と実際の分離」が起こるのは、1階と2階の
正しい結びつきを欠いたのが原因としていた。
(B)数学活動のサイクルの核心は、自然や社会に伏在する経験や数学的経験
に伏在する事実を拾い上げ、その間を貫く抽象形式を数学形式に「抽象化・
数学化」する過程と、その逆の、抽象的な数学的構造に経験的想念を再注入
し意味を与え解釈・翻訳する「具象」化の過程という二つの移行過程を内容
とする数学特有の抽象思考にある。この移行を媒介するものとして、モデル
・シェーマ・イメージを位置づける。ここにはコンピュータも含まれる。20
世紀最大の発明とも評価される『ゲームの理論』の創始者V.ノイマンは、抽
象的な数学に意味付与するシミュレ−ション・ツール(シミュレータ)とし
てノイマン型コンピュータを開発したのだった。
この各シミュレータは、「抽象」化と「具象」化の移行を媒介するにあた
って、多様な実際的経験と多様な数学的経験の双方向から、パターン抽出を
比較的容易くできるという意味で教育的にも意義深い。
この2つの相A,Bの教材化にあたって、現場教師からごく当然に出てく
る疑問が考えられる。高等教育課程以外でも可能なのかということである。
数学活動のサイクルを体験させる教材『犯人探しを「数学する」』は、小
学校1年の「仲間あつめ」からスタートし、情報化・符合化などを経て、二
進数(法)の導入、紙製コンピュータとしての二進数カード作り、ソート・
サーチ体験、アルゴリズムの探求、人当てマジックの数理の解明へと続く。
ここでは、基礎・基本を前提にしない。一歩歩む毎に数学概念・方法の学び
と使用が綿密なカリキュラムに沿って展開するが、つねに、自由な探求との
バランスを考慮してある。また、数学=パターンの科学を実感させる教材『
プロ野球日本シリーズを「数学する」』は、修学旅行の街角オリエンテーリ
ングからスタートし、子猫4匹の性別の分れ方、スーパーマーケット内の客
の流れ、自販機内の釣り銭切れの計算等々、どの具体的な問題も「格子」モ
デルを介してパターン化すれば、パスカルの三角形と確率計算に帰着する。
こうした学びは、学生に「今まで隠されていた重要なことをやっと教えて
もらうことができたみたいでうれしい」と言わせている。形式を優先させた
数学教育は、理想主義的な構築物であったかも知れないが、学ぶ者から土台
として欠かせないはずの人間性を失わせ、活力を失わせていたのである。
関連する図表・資料等
1) 文部省・高等学校学習指導要領
2) 遠山啓『あたらし数学教室』新評論社1955
3)N.A.ホワイトヘッド『科学と近代世界』
4)アンリ・ポアンカレ『科学の方法』
5)数学活動のサイクル
抽象化・数学化
現実の問題 → 数学問題・理論
説明・予測 ↓ ↓ 解析・演繹
現実解・検証 ← 数学解・推論
解釈・具象化