直観を働かせ、数学を構成するのはあなた!!
先達の足跡をたどろうとしてはならない 先達が求めようとしたものを求めよ
芭 蕉
演繹主義的様式の数学と、帰納主義的様式の科学は、共に権威主義の温床
ラカトッシュ
世はまさに数、カズ、かずの氾濫、人命を値踏みする生命保険・事故死
賠償のホフマン方式、政治経済を揺り動かす円相場・株価・選挙の得票率、
生活に直結する公定歩合・物価、降水確率に不快指数、視聴率に打率・防
御率、そして教育界の妖怪、5段階評価と偏差値というように。
書店の本棚には「数学オンチのための・・・」とか「数式のない・・・」
「文系人間の・・・」といった柔らかい書名の数学の本が多い。おしなべ
て売れ行き好調という。同じような一冊で、かってベストセラーとなった
「数字オンチの諸君!」(草思社)の著者言うところの、他の面では教養
があるのに、数や確率といった基本的な概念をうまく扱えない「数字オン
チ」の人達が、数の氾濫する、テクノロジーに支えられた現代社会で、数
字・数学オンチという病気では困る、「なんとか治したい」と特効薬のワ
クチンを求めるのが、柔らかい数学本売れ行き好調に現れているのだろう。
数字オンチ病の温床として、その責任を指弾されるのは、学校教育、特
に算数・数学教育、さらに遡って数学の在り方にまで及ぶ。
経験的源泉から不必要なものを捨象する抽象、その数学的対象にさらに
行う2代、3代の抽象、ここに特徴のある”数学化””一般化”が経験的
であれ、数学的であれ、対象から具体的意味の一部を失わせ、図・式・計
算から具体的イメ―ジを奪い、人を数学の前で立ち竦ませてきた。数学教
育もまた、この影響から免れることができず、あたかも、学ぶ者すべてに
等しく数学を獲得させることを拒むかのように、証明に煩わさせ、問題を
解くことに汲々とさせ、数学に怯むことを増幅、挫折させ、数字オンチを
拡大再生産してきたのであった。そして、この数学教育における数字オン
チの再生産は、けっして個人的な問題ではなく、教育機会や教育達成の不
平等を担う学校装置における最も教育効果あるものとして機能するきわめ
て社会的な問題としてある。したがって、数字オンチ病の温床にメスを入
れるということは、数字オンチを云々することにとどまらず、数学「学習
離れ」や、昨今話題の「理科離れ」、果ては、思考することすら疎む等々、
教育と裏腹の現象を生み出している教育の社会学もしくは教育社会学的な
再生産論論議にまでかかわる問題を内包している。
このような数学(教育)の現状は、かってロマン・ロランが、
空気は我らの周りに重い。旧い西欧は、毒された重苦しい雰囲気の中で
麻痺する。偉大さの無い物質主義が人々の考えにのしかかり、諸政府と諸
個人との行為を束縛する。世界が、その分別臭くてさもしい利己主義に浸
って窒息して死にかかっている。世界の息がつまる。もう一度窓を開けよ
う。広い大気を流れ込ませよう。英雄たちの息吹を吸おうではないか。
と、「ベートベンの生涯」に夢を託した、当時の澱んだ世界と同様澱んで
いる。このことは、現代数学に大きな足跡を残したフォン・ノイマンが、
抽象化、つまり、数学のための数学、への傾向に次のような、ロラン同様
の警鐘を鳴らしていることからも頷ける。
或る数学的学問が経験的源泉から遠ざかるにつれて、ましてそれが『現
実』から生まれた想念の息吹を間接にしか受けない第2代、第3代のもの
になってくると、その周辺には重大な危険がまとわりつく。・・・・そし
て一度この段階に達すると、・・・その治療の方法は源泉に立ち返って・
・・経験的想念を大なり小なり直接に再注入すること、これ以外にはない
ように思われる
と、源泉に立ち返る努力をしないで、抽象的な数学思考のできない者「こ
の門入るべからず」(プラトン)と嘯いていることは許されない、と言う
のであった。同じ次元で帰納主義的様式の科学にまで批判の矢を放ってい
るのが「数学的発見の論理」を著わしたラカトッシュである。
数学の在り方批判に最も応えなければならないのは、言うまでもなく数
学教育だが、残念ながら、日本の数学教育の主流は、ノイマンの警鐘とは
逆行し、「みんなの数学は、誰の役にも立たない数学!」という判断が世
界的な潮流と嘯き、「このままでは日本に優れた数学者が出なくなる」と
言う言葉に代表されるような、国のための数学研究や、数学者を産み出す
ための差別・選別的な英才教育願望が底流にある。しかし、この一部テク
ノクラート養成をめざし専門的な数学の知識を詰め込み、学ぶ者の多くに
挫折感を刻みつけてきた教育の継続を拒み、さまざまな数学の源泉との接
触の中で、学ぶ者誰もが持ち合わせ、それ自体に価値があり、人間精神の
健全な発露である文化としての数学活動を開花させよう、とする潮流も根
強くある。
私は、数学(教育)の現代的課題の焦点を、ノイマンの言う、
抽象的な数学形式に経験的源泉を甦らせる数学「具象」化
と、
数学が次第に抽象的思考の領域に入り込んでゆく様子はまことに印象的。
数学はその上で、具体的事実の分析という重要な役割を果たすために、地
上に戻って来る。・・・ここに、具体的なものを攻略するための武器が極
度に抽象的であるという、パラドックスが・・・
とホワイトヘッドの言う、その逆の、
経験的具体から抽象を経て数学に到る「抽象」化にある
という立場に立って、この二方向の思考に習熟していく道(これがホワイ
トヘッドが感嘆の声)の一つのあり方を教育現場で模索・実践し、提起し
てきた。
他の実践にない特徴は、数学形式とその源泉との間の階段を昇り降りす
る数学的認識の自然発生・自然醸成を待つことができない教育の場で、冒
頭引用の芭蕉の精神、先達の足跡を辿らせる教育に汲々とするのではなく、
先達が求めようとしたものをいかに学ぶ人たちに求めさせるか、というこ
とを、主として幾何的図式、ときには物的モデルを媒介に、実験的・発見
的模索や直観的把握を伴って実現しようとしているところにある。
古来、数学の源泉は、大きくは「離散と連続」に、さらに離散は「絶対
(算術)と相対(音楽)」、連続は「静(幾何)と動(天文学)」の4種
に分類されてきた。数を対象とする算術や、形を対象とする幾何は周知の
ものだが、音楽というのは、現代流に言えば、代数的、組合せ論的な配列
を対象にするものと言え、天文学というのは、運動を対象にする学問の代
表を意味する。現代数学は、この4種に、第5のものとして、コインの表
裏の出方のような「偶然」をつけ加えたのであった。
こうした長い歴史を経て、一歩一歩積み上げられてきた数学の論理構造
の性格が、非常に発展した現代数学の最先端に到達するには、同様に長い
道を辿らなければならないとか、数学は具体的であってはならない、抽象
的で、形式的な思惟の産物、というような各種の迷信を作ってしまった。
そしてその教育もまた然り、と。
しかし、この長い数学の歴史も、つぶさに見れば、つねに根幹をなし、
数学的な整合性と一貫性が時代を超越し、しかもいまなお新しい原理が生
まれつつあるものがある。それは、数論と幾何学であり、特に、幾何学は
人間精神の発達史において新しい視界を開く役割を果たしてきた。抽象性・
一般性の強調される現代数学においても、幾何学は、ある数学的構造に図
式(シェーマ)とかモデルと呼ばれる空間的対応物を位置づけ、数学認識
に寄与する姿で、その重要性はますます顕著になっている。
コンピュータをはじめ、マルチメディアが日常の生活と教育に入り込ん
でくるハイテク環境のいま、「学び」においてはこれまで以上に、個々人
が行う、実験的・発見的模索や直観的把握で育まれるリアリティを伴うロ
ーテクの環境をこそ必要とする、という時代認識に立って、本ホームペー
ジでは、身近で作ったり、容易くやってみたり、弄ぶことができる折り紙
をはじめとする、ファミリアな、図的もしくは物的具体を媒介に、「手づ
くり」数学として展開している。ローテクの典型である折り紙は言うに及
ばず、ハイテク機器の典型であるコンピュータ支援による数学教育までを
も、数学の実在の体感を伴い、交歓と呼ぶに相応しい「教え合い」を伴う
よう、身近かなメディアを媒介に数学の「ハンドメ」(Hand Making
Mathematics 略称HMM)、ローテク化を模索・実践してきた。
この試みは、幸いにも、多くの高校生をはじめ、中学生や大学生、そし
て教師たちからも賛同を得ることができた。
このホームページでは私の専門の高校の数学内容にとどめず、数学発祥
以来の源泉である数・形・配列・運動・偶然の5つの各分野から幾つかを
選び教育を考える父母・教師や、数学再入門をめざす学生・ビジネスマン
が、各章で使われている、ファミリアな、折り紙からコンピュータ支援に
よる数学までを、手づくりで読み進むうち、算数・数学との「新鮮な」出
会いと「学び」について新たな視野を広げる体験ができるよう心がけた。