高橋さんのご感想・意見に応えて

 前回の高橋さんの報告は、遠隔地に住む私にとっては非常に有り難いものでした。そして今回の私
の報告に対するコメントは、私が意図したことを私以上に伝えてくれている部分もありありがたく拝
読しました。しかし、私の報告のまずさもあって一部に誤解を与えたようですし、聞きそびれた部分
もあったとのことですので補足(赤字部分)させていただくことにしました。

I. 山岸氏の講演発表の概略
はじめに、山岸氏からノート型パソコンを用いて「犯人あてマッジク」と「dx/dy=kyについて」の授
業実践・講義の例を模造紙大の壁紙に拡大映写して、プリントの論考「数“樂”・“戯”術を子どもの
遊びに数学活動の知的サイクルで構成する学習」(山岸 昭則)の説明がなされました。山岸氏の意
図するものは、「教材に動作や行動を知的に適用し、数学の論理に導き、そのようにして獲得した数
学の諸形式を具体的事象の解析に適用する」という主旨で、ブルーナーの学習理論「構成主義的スパ
イラル方式」の子どもの表象構造の発達

       運動的表象 → 映像的表象 → 記号的表象 ………(I)

の三段階説を下図「数学活動の知的サイクル」

           抽象化・数学化

     現実の問題    →     数学問題・理論
 説明・予測 ↓              ↓  解析・演繹………(II)
     現実解・検証   ←     数学解・推論
            解釈・具象化

で捉え直して現代的にアレンジしたものが、下図の(III)の図で、子どもの表象構造の発達段階説だけ
でなく、短時間で数学の概念・方法の「学び=教え」が構成できるとのことでした。



             → → → →  数      学      化 → → → →
            ↑   → →第 1 次 抽 象 →  → 第 2 次 抽 象 → → ↓
            ↑  ↑         ↓ ↑         ↓ ↓
経験的・実際的問題  ⇔  モデル・シェーマ・イメージ  ⇔ 数学形式・問題 ……(III)
 ↑  ↑         ↓ ↑          ↓ ↓
 ↑   ←←第 2 次 具 象 ← ← 第 1 次 具 象 ←← ↓
  ← ← ← ←  解 釈 ・ 翻 訳 ← ← ← ← 

(III)の図の方法を応用した山岸氏の「犯人あてマッジック」の例で、私なりの理解と解説の概略を
試みてみます。 小学生に、十数名の似顔絵が画かれている4枚の絵をみせて、どの絵の中に犯人がいるのか、あるい
は、いないのかだけを言ってもらって、犯人をあてるマジックで、講演者(山岸氏)が犯人をピタリと
あてることにたいして、小学生は大変不思議に思うようです。次に、4枚の絵の中に、犯人がいるのか、
いないのかによって、それぞれ横に4つ並んだ丸の中を黒まるで塗りつぶすか、塗りつぶさないで空欄
の丸のままにしてもらいます。この段階が、手を動かす(I)の図の運動的表象の段階です。
(「次に」以降の前に) 「人相絵」をハサミでバラバラに切り離し犯人をあてることができる入学1年生の算数授業「仲間あつめ」にあたる物理的操作の段階があり、これが運動的表象の段階です。そして、これをもう少し数学的に処理しようと絵に丸印を打つという「情報化する」(第一次抽象を経た)ことによって、バラバラに切り離したカードを物理的に操作する段階から丸印を塗りつぶすだけの映像的表象の段階に移行したわけです (これは下の高橋さんのご指摘の通りです。また、記号的表象の段階の指摘も同様)。
丸をいくつか塗りつぶして得られた4個の一かたまりの丸のイメージは、(III)の図では第1次の抽象の結果で、モデル・シェーマ・イメージが得られた段階で、(I)で言えば、映像的表象の段階であろうと思われます。 そして、例えば、4個の丸が次のようになっている場合、●○●●●→1に、〇→0に対応つけると、2進数の1011が得られ、これを十進数に直すと、1×2・2・2+0×2・2+1×2+1=11となり、犯人の似顔絵の裏にこの数字が書かれているものを指定すれば、ピタリと犯人をあてることができるわけです。ここで、いくつか塗りつぶされた4個の丸から0と1を用いた2進数の世界に移行することが、(III)の図の第2次抽象の段階で数学形式を獲得したことになり、(I)の図で言えば、記号的表象の段階に入ったことになると思われます。山岸氏は、獲得された数学形式を(III)の図にあるように、具体的なものを攻略するための武器として、具体的事象の解析に応用しています。例えば、電気のスイッチのON/OFF,True/False……などが2進数で表される事、2進数の計算へと発展させて、2進数のパターンを獲得し、その具象化としての応用、紙製のコンピュータの手作りの実践…等をしています。具象と抽象間を上がり下りする抽象思考の形成を目指しているものと考えます。尚、山岸氏は(大学講義「教科・算数基礎」において)二進法を教材に選んだのは、二進法の計算の構造を通して、十進法の構造へと発展させたいためであると述べられました。山岸氏は、その他、微分方程式dy/dx=kyの型が、放射性物質の減衰、お湯の冷め方(ニュートンの冷却法則)、マルサス型の人口増加現象……のパターンとして表されることを簡略して述べられました。さらに、4×4の格子点を用いて、プロ野球シリーズでは一方が4勝したら終了する条件のもとで、70通りあることが考えられ、さらにこの格子図を用いて、スーパーマーケットの客導線の客の流れがパスカルの三角形のパターンと同じであることなどを述べられました。

学生の中には、意思を持つ人間が、客導線の客の流れがパスカルの三角形のパターンになるのにショックを受け、数学観が全く変わった者もいたとの事でした。また、バイトをしている学生が、販売中止のランプが灯いていない自動販売機のつり銭の入れ方に疑問をもって、山岸氏に質問してきたのですが、後日、そのつり銭の入れ方が、パスカルの三角形のパターンと同じであることが解明されたとのことでした。

II.山岸氏の講演発表およびその後の討論についての私の意見と感想 第1回数学教育論研究会で配られた山岸氏の論考「創造と競争のはざまで」〜常に必要な学力の問い直し〜を以前読んでいたので、その点も含めて私の意見と感想を述べます。

(1) 数学教育では、主に、「わかる」、「できる」、「楽しい」、「役に立つ」…ことを目標に授業展開がなされているが、山岸氏の「創造と競争のはざまで」では、正面から創造性を取り上げていることに対して、私は注目をしてきました。私は、山岸氏のホームページにのせてあるものもさらに見たいと、町のインターネットで2時間かけて悪戦苦闘しても、山岸氏のホームページにつながらず、佐分利氏から、山岸氏の論考「数学活動の知的サイクルで構成する学習」をファックスで送ってもらって読んだが、その全体の主旨がなかなか理解できず、三度読み直して第三回数学教育論 研究会に参加しました。というのは、長い教師生活の中で誰でも経験することですが、学び手の問題の解法や質問…等が、私の意図したものとかけ離れたものが何度も出され、学び手は教えた内容の知識だけを用いているのではなく、私の意図・思惑を超えて発想し、創造しているのではないかという場面に出会っていたからです。もちろん、そのような場面に出くわすことは、大歓迎でうれしいことです。私の意図・思惑とかけはなれた正解や質問・意見……等が出た場合は、学び手本人から直接解説してもらったり、後日、私が解説したり、あるいは、プリントにして学び手全員に配り、課題にしたりしてきました。しかし、私は、学び手達の創造性に切り込んで、理論化や普遍化はできないでいた。否、むしろ、創造性の問題は、ひらめきとか無意識の領域に属するものとして理論としては捉えどころのないもので、数学教育上で第一義的に重要ではあるが、脇に置いていました。しかし、山岸氏は、とっつき難い数学でも、「犯人あてマジック」で実践されたように、学び手が、三段階構成方式でいつの間にか数学に没頭し、短時間で抽象性の高い概念や手法が得られること、さらに、その方式で構成と教え合い、学び合いを組織する社会性が出来ることを通して創造力を持った人間を育てることをめざしていることに、注目していました。

(2) “創造性を引き出す・養う方法”(三段階構成方式)としての(III)の図については、当日、時間の制限で詳しい説明がなされなかったのは残念であるが、私なりの理解・解釈(?)を述べると、(I)の図は、(III)の図の中にある経験的・実際的問題⇔モデル・シェーマ・イメージ⇔数学形式・問題 として取り組まれているものと思われます。また、ブルーナーの三段階説(I)の図では、矢印の向きが一方向(→)になっているが、山岸氏の三段階構成方式の図(III)では、具象と抽象間を上がり下りするため、矢印の向きが両方向(⇔)にして、ブルーナーの三段階説を発展的にアレンジしていると考えます。(II)の図の矢印の方向は、(III)の図の矢印の方向で表されているが、(I)の経験的・実際的問題(運動的表象の段階)とモデル・シェーマ・イメージ(映像的表象の段階)およびモデル・シェーマ・イメージと数学形式・問題(記号的表象の段階)との間の2つ(⇔)を、上段は第1,2次抽象で、下段は第1,2具象で関係づけられていて、(II)の図をアレンジして発展させているものと考えます。(III)の図の中にある第1次抽象の段階で止めておくと、学び手は映像的表象の段階に留まり、モデル・イメージ・シェーマは獲得できるが、数学形式としてのパターンは形成されないと思われます。この点に関して、討論の中で、佐分利氏からベキタイルについての質問があったが、ベキタイルはシェーマとしてのメンタル・イメージとして考えると、映像的表象の段階であろうと思われる。討論後、宿泊の5人で談話中、たまたま、ベキタイルのことにふれたので、私のベキタイルの授業実践の失敗例を述べた。中学三年のあるクラスで2次式の因数分解の導入部分として、各生徒一人一人に、Xの2乗、X、1ベキタイルを何枚かずつ配り、ベキタイルを操作して長方形に並び替え、長方形のたてと横の因数を求めることが出来た段階後、ベキタイルを離れて、たすきがけのやり方を説明し、2次式の因数分解の課題を出したところ、数人の生徒からベキタイルがないと因数分解が出来ないと言われました。この生徒たちは、ベキタイルの操作に固着して、そこから出られなかったのでした。そこで、たすきがけをもう一度解かりやすく説明したが、納得が得られず、ベキタイルとたすきがけの中間に、2次の項と定数項の分解をはじめにして、直積表を用いて、やっと納得してもらいました。また、生徒の中には、因数分解の公式に現れる文字x,y,a,b,c,d等にとらわれて、異なる文字や一かたまりの文字式の因数分解に戸惑う姿を見て、私も戸惑いました。そして、さらに、大切なことは、因数分解の公式にあてはめて応用するだけではなく、因数分解の公式に現れる文字の中に、その文字と異なる文字式を代入しても、その因数分解の形式は変わらないということの認識が大切ではないかと考えました。(この点は、山岸氏と同意見でした。)その後、私は、代数は形式を重んじる分野だと考え、Xの2乗は○の2乗、Xは○、係数や定数項の数は△、定数△の乗法的分解には、□や◇…等を用いて、因数分解の公式を表現し、これらの○、△、□……等に勝手な文字式を代入しても公式が成り立つことの授業の実践を試みました。いま思うと、教具やシェーマを用いた授業では、シェーマをどの時点で離れるかが大切で、この点に失敗すると、モデル・シェーマ・イメージの段階に留まり、第2次抽象の段階に移行出来ず、パターンは獲得できないであろうと思われます。

(3)(・)の図の中の具象について、第1次、第2次具象があるのは、第2次抽象化で得られた数学形式が極度の抽象化のため、具体的な事象に応用しようとすることにギャップがあるためと思われます。(この点、質問しそびれたことを悔やむ。)そうです。私が多用するノイマンの次の引用こそ数学教育は常に考慮しておく必要があると考えています。
或る数学的学問が経験的源泉から遠ざかるにつれて、ましてそれが『現実』から生まれた想念の息吹を間接にしか受けない第2代、第3代のものになってくると、その周辺には重大な危険がまとわりつく。・・・・そして一度この段階に達すると、・・・その治療の方法は源泉に立ち返って・・ ・経験的想念を大なり小なり直接に再注入すること、これ以外にはないように思われる。


このことに関連することは、学び手に「定理」を証明した後に、応用問題に取り組んでもらおうとすると、時々、学び手はどのように「定理」を使ったら良いのか、戸惑っている場面に出会うことがあるからです。第1次、第2次具象の過程は、理に適い、応用上、考慮すべき過程ではないかと考えます。

(4)IMPの相互学習と三段階構成方式の学習との一致点と相違点(一致点)・ 抽象度の高い概念や手法が教え合い・学び合いの中で得られること。・ 山岸氏が論考の中で、学び手の「「リアリテイ」の定義付けは難しく、数学教育単独で解決できるものではなく……」と述べられた主旨とエスノ数学の命題「数学教育は、文化を背景とした知識や生きた関心に基づかない限り、本当の効果を持ち得ない。」ことと相通じるところがあると考えます。・ IMPの相互学習で「概念の開発、解くための手法の開発」は、山岸氏の三段階構成方式でパターンの獲得(第1次、2次抽象の結果)とその応用(第1次、2次具象の結果)に相当すると思う。(相違点)・ 内容にもよると思うが、IMPは問題解決型の学習では、学び手が本気で取り組める課題を設定し、その課題を取り組む過程で、学び手が自らの常識の問題点や限界と向き合わざるを得ないような設定をするので、概念の開発・解法の手法の開発に時間がかかるが、三段階構成方式の学習では、短時間で抽象度の高い概念が得られる。・ 発達心理上、IMPの相互学習(アメリカでは現高校生のみに実施)は、小学校低学年では無理なのではないかと私は思うが、三段階構成方式の学習では、山岸氏が「犯人あてマジック」を小学三年生に授業実践しているので、小学校低学年でも可能である。この相違点は、根本的に何に起因するのかは、私には、まだ、はっきりとは認識できていない。・ IMPの相互学習では、学び手が概念の開発、解決に至る手法の開発に、教師が脇にいるだけではなく、4人1グループの問題の取り組む進行状況に時宜に適った適切な指導・アドバイスの仕方を修得しなければならない。一方、三段階構成方式では、もちろん、教師はその方式の実践の仕方を修得しなければならないが、どちらかというと、教材の作り方の方に比重が置かれ、「犯人あてマジック」のように、自然と無理なく、2進法の世界で遊び、没頭できるようになっている。それだから、三段階構成方式は、短時間で抽象度の高い数学形式を獲得することができる。

(5)黒田氏の仮説実験授業の学習と三段階構成方式の学習との一致点と相違点(一致点)・ 黒田氏の4項目のうちの2番目の「工作・実験をとりいれる。また、教具を工夫する。」ことは、三段階構成方式では、運動的表象の段階とみなせる。・ 黒田氏の3番目の「つねに“発展させる”ことを考える」ことの過程の中に、仮説が正しいか否かの検証→仮説の変更→再実験→再検証……→法則・定理(パターン)の獲得が、三段階構成方式の映像的表象から記号的表象への移行(第2次抽象)で、仮説をたてることは、三段階構成方式のモデル・シェーマ・イメージの映像的表象の段階だろうと思われる。なぜなら、地球温暖化のモデルや生態系や経済現象の数理モデルを例にとると、いくつかのモデルが提起されているように、具体的事象のモデルは、一般に、1つではなく、いくつかあり、まだ仮説の段階のモデルだろうと考えるからです。この点、山岸氏の論考では、モデルの意味とパターンの意味の違いが明確にあると思われ、第2次抽象で獲得された数学形式が、パターンと位置づけられるのではないかと考えます。・ 黒田氏の仮説実験をとり入れた方法で授業の最後の段階で「問題をつくる」ことが、山岸氏の三段階構成方式の第1次、2次具象への移行に相当すると思う。(相違点)・ 仮説実験授業では、はじめに、到達目標を定め、そこに至る筋道をはっきりさせてから、仮説をたてる・選ぶことをしますが、三段階構成方式では、「犯人あてマッジク」にかぎると、映像的表象(モデル・シェーマ・イメージ)は、運動的表象と記号的表象の中間段階にあり、運動的表象から映像的表象への移行は、教材そのものの中に自然と組み込まれていて、さらに、仮説実験授業のような試行錯誤の過程が無いかわりに、短時間でスムースに高い抽象的概念・パターンが獲得できるものと思われる。
日本の教育では「試行錯誤」が継子扱いされているところに問題があると考えています。つぎの「自由な探求」と私がいう「学び手にとってのリアリティ」とこの試行錯誤は切っても切れない関係にあり、これを実現する過程が「運動」、「映像」における試行錯誤の意義と位置づけています。したがって、私の方法には系統性の尊重も試行錯誤も組織されています。(6)、(7)もご参照下さい。
(注)この点については、(11)で後述したい。

(6)山岸氏は、体系的で綿密なカリキュラムのもとで、学び手に受身を強いる教え込みと好奇心の所産であり、創造につながる本来的な意味の「学習」につながる「自由な探求」とのバランスが不可欠であると述べていて、体系的で綿密なカリキュラムにもとづいた学習を全面的に否定しているわけではない。このことは、数学教育上で、たびたび問題になる系統的な学習と系統性を考慮しない学習とのギャップをどうするのか? という問題に関連してくると思われる。この点を、山岸氏に質問しそびれてしまった。
(9)とも関連させながら書きます。系統(科学)性と「自由な探求」のギャップを埋めるものとして「構成主義的スパイラル方式」を現代的にアレンジする立場をとったのでした。それにはまず、科学性・系統性ということに関して私の採っている立場について書いておかなくては話が通じません。レポートの中でも書きましたが、主観を排し、客観的な知を確立するのを科学の目的とする従来の科学論と知識論に対し、「科学の超然性という客観主義的で非個人的な理想は有害極まる誤謬の源ともなる」と、すべての理解の行為における知る人の個人的関与に注意を払うような理想を対置し、知識を非個人的なものにしようという現代文化の傾向が、事実を価値から、科学を人間性から引き裂いてしまった、とする化学者にして哲学者M.ポラニーを引用しました。
人間が知識を発見し,また発見した知識を真実であると認めるのは,すべて経験を・・・能動的に形成,あるいは統合することによって可能となるのである。この能動的形成あるいは統合こそが,知識の成立にとって欠くことのできぬ偉大な暗黙的な力である                   
このポラニーの言う「能動的形成」を学び手が行うことを抜きに真の科学的認識はありえず、それには非数学的思考を含めた数学的活動のサイクルを体験させる教育が不可欠と考えるわけです。しかし、現行のすべての教材にわたってこの活動を体験させることは、期限付きの教育という場では物理時間的に不可能。このことが、従来の数学教育の発想にない学びの形態や順序の改革を伴った(A) 現代の数学の多様な使われ方の「学び」ができる教材を内容とする「現代化」が必要と考え、カントールの集合論やガロアの群論が現代数学を準備したように、従来の算数の「基礎・基本」観を根本的に変える(B) その教材の持つ系統性を非数学的認識から数学的認識への過程を「学びの過程」において構成するという程の新しいパラダイムと呼ぶべき大改革が待たれていると考える所以です。


(7)山岸氏は、「自由な探求」をともなう学習には、学びが学び手にとってリアリテイ(現実味・実在感)をともなうものとして組織されなければならないと述べられました。リアリテイをともなわない実際的・経験的問題などの学びは、学び手にとって退屈でしかないこと、有意味なリアリテイをともなわない「楽しさ」や「面白さ」は一過性で終わってしまうことを述べられました。また、逆に、実際的・経験的問題でなくても、有意味なリアリテイをともなうものであるならば、探究心を旺盛にする場合もあると述べられた。  この点について、事例として、山岸氏は農業高校で統計を教える時に、生徒達が作ったカンズメの重さを計り、重さにバラツキがあり、分散などにつなげて授業展開したところ、生徒たちとって自分たちが作ったカンズメというリアリテイがあるので、探究心が旺盛であったとの報告がなされた。 この意見には、私は賛成です。さらに、有意味でリアリテイをともなうものであれば、実際的・経験的問題でなくとも探究心を旺盛にする場合があるという山岸氏の意見には、私も同意見で、整数論の学習、例えば、増島氏のピタゴラス数の発見に向けた授業等はこの領域の分野に当てはまることだと思う。遠山啓や高木貞治も「初等整数論」の本の冒頭に整数論の数学教育への役割についての言及は、山岸氏の言及した主旨とも関連するのではないかと思うが、……。
「学び手にとってのリアリティ」、「有意味でリアリテイ」ということについて少し補足します。熱交換の平衡状態の速成過程熱平衡状態とは、コップに入れた熱湯はそのままおいておけば、しだいに冷めていってついには室温と等しい温度になり、温度の変化がなくなる。また、容器に入れた液体をかき回してから放置すると、しだいに運動がゆるやかになっていって、ついには静止してしまう。このように、物体の(体系の)状態が巨視的に見て全く変化しなくなったとき、その体系は熱平衡状態にあるという。この平衡状態の存在を確認することが熱力学の始まりで、巨視的な物理量には平衡状態に関するものが極めて多い。時間的に変動する量の場合でも、平衡状態での値からのずれを問題にしたり、部分的には、またはある短い時間の間には近似的に平衡状態が成り立っていると考えることが多い。このような平衡状態の存在は、物質を基本粒子の集団として考える時どのようにして理解することができるのであろうか。この問いに対して答えを出すことが、統計力学の重要課題の1つであり、現在の統計力学はこのことから始まったといえる。この平衡状態の達成過程についての統計学的性質を考えるのに物理学者のエーレンフェスト夫妻は「エーレンフェストの壷」という名前で知られているモデルを提起した。二つの容器と、それらの中に分配されるk値の粒子を考えている。一つの粒子がランダムに選ばれその容器から他の容器に移される。そしてこの過程が繰り返されるとするn回の後、その粒子の分布はどうなっているかところが、この「エーレンフェストの壷のモデル」をフェラーは次のように言い換えている。第一の容器に入っている粒子を、壷に入っている赤ボール、他を黒ボールとする。そして、毎回取り出したとき、取り出されたボールを他の色のボールと取り替えるのである。もし、赤がなくなれば、黒のボールが自動的に取り出されて赤いものと置き換えられるのでこの過程は幾らでも続けられる。と。このフェラーのモデルにはエーレンフェストのモデルに比べて、私が言うところの統計データとしての“リアリテイ(現実味)”を失わない配慮がされていると思うが、実は、エーレンフェストのモデルも平衡状態の達成過程をイメージできるように次のようなモデルで提起されていたのである.(別名「犬 - 蚤 - モデル」と呼ばれていた)二匹の犬が並んで走っている。一匹は蚤を沢山つけている。これらの蚤があちらへ、またこららへと跳ね移ることによって、この二匹の犬に均等に分かたれるのにどれくらいの時間がかかるだろうか、そして、その均等配分の様子はどのようなものだろうか?上記の各モデルを、私は、自然・社会における偶然事象や現実データの解析をシミュレートとするボード・ゲームの一つとして、平衡調節の時間的な動きをシミュレートするゲームを提起した。このゲームのためには、座標の目盛り(n×n n:偶数)のある盤面、目盛りに対応した多面体サイコロ、 2色以上のチップ(それぞれの色のチップの数は、すべての目が埋められるだけ)を用意し次のようにする。どちらか一方のゲーマ一だけが自分のチップで盤面を隙間なく埋めた状態からゲームを始める。個々のゲーマーのチップの余剰が数えられるのではなくて、最初に置かれたチップの数の半分を異なった色に代えるために要するサイコロを振った数が数えられる。サイコロを振った回数は常に、新しいチップをゲームに加える方のゲーマーのためにメモされる。 1ゲームが完了するには比較的多くの偶数のラウンドが必要である。この場合の勝利者は、最後に低い点数を示した人である。
 (8)パターンの科学=数学について蔵原氏が討論の中で出された質問「パターンの科学と言われても、例をあげれば、社会科学の民主主義というパターンがあるが、パターンの科学とどう違うのか?」については、吉田氏、その他、何人かの解答や意見が出された。確かに、パターンは、数学以外の諸科学、文学、芸術……等にもあり、例えば、音楽でもロンド形式…等のパターンがありますが、ここで言われているパターンは、吉田氏が言われたように、トートロジイーにはならないと思うが、代数的、幾何学的、解析的、……のパターンのことだと考えます。ハーデイが「数学者の弁明」(みすず書房出版?)の中で、「数学者とは、パターンのつくり手である」と述べられたのも、上で述べた意味であろうと思う。この議論は、私にとっては、「数学とは何か?」という原点への問いに思え、議論として関心があるところですが、山岸氏が答えたように、様々な授業実践を通して学び手が「これが、数学なのか」という実感が得られれば、その段階にとどめたままで良いと考えます。尚、討論後の談話の中で、パターンについては、山岸氏から日経サイエンス社の本「数学:パターンの科学」(キース・デブリン著)を紹介されました。さらに、談話の中では、山岸氏が論考の中で使われている言葉「数学教育現代化」、「非日常の数学へ」の解説がなされたが、省略します。

(9)山岸氏は、遊びと創造とconviviality(みんなで一緒にいきいき楽しい)を切り離せない一体なものと捉え、単なる気晴らしの「遊び」と区別し、本来の遊びは、生命の燃焼・充溢を伴うものであると位置付けています。私にとって、数学を学ぶことは、「荘子」の世界の「逍遥遊」のように、時間を忘れた楽しさがあるときもあり、山岸氏の言わんとすることに肯けますが、時には、壁に突き当たり、悪戦苦闘の苦しさもあり、どちらかというと後者の方が多い。いつでもcon-vivialityとはいかないまでも、時々convivialityが実現されれば、それで良いのではないかと思いますが……。また、数学教育では、convivialityが時々実現されれば、持続・成立するのではないかと考えます。逆に、遊び・創造・convivialityが皆無である数学の授業は成立しないであろうと考えます。このことは、学び手に受身を強いる「体系化された綿密なカリキュラム」のもとでの学習とそうでない学習や探求型の学習とのバランスとも関連しているのではないかと思います。

(10)関連性の探究について論考の“関連性の探究”の中のホワイトヘッドの引用「(学びは本来、単元間のつながりを学んだり、関連性を見つけることであるとし、関連性の探究を省略するいかなる学問体系も科学たり得ない」、「完成された出来合いの知識を吸収することのなかに、学びの喜びはない」および論考の“パターンの科学=数学”の中のアンリ・ポアンカレの引用「ゆたかなアイデアにたどり着くのに必要なのは美的直観である。美的直観とは、これまでは無関係と思われていたものの間に関係があることを発見すること」について、討論の中で、蔵原氏から「関連性とはなにか?」という質問が出されました。この点について、私は次のように考えています。・ 数学的対象は異なるが、数学的構造が同じな場合、同一のパターンを用いて諸対象の問題を統一的関連のもとに解決することが出来る。また、逆に、無関係と思われる具体的諸事象どうしの中に、構造が同一のパターンがあり、パターンを通して関連性があること。この見方は、構造主義だと思うが……。山岸氏が例としてあげたのは、電気スイッチのON/OFF と論理演算のTrue/ Falseは、数学的対象は異なるが2進法のパターンとしては、同一視できる。同様に、人口増加のマルサス型モデル、放射性物質の減衰減少、ニュートンの熱の冷却法則は、現象は異なるが、同一の微分方程式dy/dx=ky型のパターンで解明される。・ ホワイトヘッドやポアンカレの引用文の主旨「関連性」について、ポアンカレ「科学と仮説」に述べられているように、ある微分方程式が、ある日突然(馬車に足をかけた時)、全く無関係と思われていたフックス関数と関連していることを発見したこと、その関連性のことだと思う。このことは、微分方程式というパターンとフックス関数というパターンが結びつき、新たなパターンが形成されると考えるならば、数学教育上では、パターンが獲得できれば終わるのではなく、パターンは、他のパターンと結びつき、新たなパターンを形成し、深化し、重層的に発展していくような教材の開発が必要ではないかと思う。

(11)三段階構成方式で、数学のすべての諸形式・パターンを獲得することが可能か?(5)の相違点・で述べたことと関連するが、山岸氏の「犯人あてマジック」では、運動的表象の段階から映像的表象の段階への移行は、教材そのものの中に自然と組み込まれていて、その教材の作りかたがスムースで自然であり、知らず知らずのうちに学び手は没頭し、そして、短時間で抽象性の高い概念、パターンを獲得しているということは、すばらしく、価値のあることと思う。一方、仮説実験授業は、仮説の変更、再実験、再検証…と映像的表象としての仮設モデルを試行錯誤しながら進めていて、学び手自らが仮説モデルをつくる、あるいは選択しなければならない。それだから、法則・パターンにたどり着くまでに時間がかかる。IMPの相互学習も、学び手が自らの常識の問題点や限界に向き合わざるをえないため、1単元に相当の時間をかけている。つまり、「犯人あてマジック」についての三段階構成方式では、学び手が、具体的・現実的事象からモデルやシェーマ、イメージを形成するには、試行錯誤、洞察、失敗、思考実験、帰納的あるいは演繹的推理・判断……等の過程がなく、思考のぶれ(ゆらぎ)のない教材の作り方で、エレガントな作り方である反面、複数の仮説モデルが出にくいという課題が浮上する。このことは、「犯人あてマジック」の教材の作り方が、第1次抽象の段階で特殊な作り方なのか、あるいはそうでないのか、また、「犯人あてマジック」以外の他のすべての数学教育の内容にも、三段階構成方式が応用できるのかという分析が必要だと思う。 私には、この様な教材や授業案は作れるのかといわれると、教科書は使わなかったが、いつも泥臭い授業案で実践してきた私には、山岸氏のような教材の作り方・授業実践にあこがれがあると同時に、ためらいもある。この点について、創造性の引き出し方について、もっと討論を深めたかったと思っています。それとともに、三段階構成方式を用いた授業実践のたくさんの事例報告が待たれる。さらに考えると、運動的表象の段階から映像的表象の段階の移行過程で、学び手に、思考のゆらぎのような場をもうけて、いろいろなモデルを考える場があってもよいのではないかと思う。つまり、この点をふまえた三段階構成方式の具体的教材の開発・授業実践があっても良いのではないかと考えます。当日の講演発表は、主に、「犯人あてマジック」の解説が中心だったので、時間の制限で、山岸氏の三段階構成方式の他の具体的な教材・授業案を詳しく知る機会が持てませんでした。(残念!)
インターネットにOnline Upしてあるストリーミング『教育教材としてのハノイの塔』と、QuickTimeの動画を盛り込んだ『タイル de 多面体』の構成もそうしたものです。このことと関連して、数学教育上で三段階構成方式で、すべての数学形式・パターンが獲得できるのかどうかという課題が出てくると考えます。そもそもブルーナーの構成的スパイラル方式は、最先端の科学概念も三段階構成によって小学3年生の教室で教えることを可能にしようとしたものでしたのですから「すべての数学形式・パターン」も構成できる、と考えられます。しかし、宿泊者だけの懇談の席上で申し上げましたが、幾つかの教材を三段階構成の体験を経ることで、ある学び手にとって、ある時には運動的段階を、また別の時は映像的段階を、そしてさらには両段階とも必要としない、記号的段階だけで学びが成立することがあります。


(12)山岸氏の講演を聞いて、最後に述べたい事は、数学教育の目標の中の一つとして、「創造性を養う」ことを掲げてはどうかと考えますが……、皆さんはどう思いますか?                               (以上)