1。「評論すれど実行なし」の風潮に終止符を

   学校への支出を増やすことは一つの国においても世界的にみても、学校
 の持つ破壊性を強化する。
    学校の拡充は軍備の拡張と同じぐらい破壊的である。

 この激しい学校批判をみると、昨年の酒鬼薔薇の小学生殺害事件から、昨今の教
師刺殺や銀行強盗など一連の事件が起こる中で、「今どきの中学生は何だ」「いっ
たいこの国の教育はどうなっているんだ」などというあいまいな、あるいはヒステ
リックな議論の一つと思われるかも知れない。しかし、これは30余年前の『脱学
校の社会』(イヴァン・イリッチ1970)からの引用です。
 中学生のあり様を憂い、日本の教育の現状を憂いている議論を、「あいまい」
「ヒステリック」と表現する私に反発を覚える方もいらっしゃるかも知れません。
しかし、思い起こして下さい。猟奇性と残虐性のある10代後半から20代最初の青
少年の犯罪はかってもありました。祖母殺し高校生自殺事件、これは20年前の
1977年。女子高校生コンクリート詰め殺人事件、これは10年前の1988年末。そ
してM被告の幼児誘拐殺人事件など枚挙できますが、ああした事件はその後どう
「解明」され、再発防止のためにどのような根本的手だてが講じられたのでしょ
う。文化精神学者の野田正彰は、小学生殺害事件に関わって、女子高校生コンク
リート詰め殺人事件を例に挙げながら、

    問題はむしろ、命をもてあそぶ犯罪が起きているのに、その時だけ驚き、
 その後に何の手だてもとろうとしてこなかった社会の側にある …
                                                         '97.7.3毎日
と指摘する。
 私と同じ50代教師の中に、「暴力教室」というアメリカ映画を見た方は多くい
らっしゃることでしょう。その感じ方は様々だったでしょうが、当時の日本では起
こり得ないこと、あるいはやはりフィクションとして観た方が多かったと思いま
す。佐藤 学(東大 学校教育)は、アメリカにおける銃犯罪と日本におけるナイ
フ犯罪との間には、殺傷の規模や件数において比較にならないほど大きな差異があ
り、校内暴力の発生率でも日米の間には数倍の差がある。しかし、暴力事件の増加
する速度は、校内暴力の前年度に対する増加率が、アメリカでは一割強であるのに
対して、日本の中学校では四割近くに及ぶこと、全犯罪に占める少年犯罪の割合
は、アメリカが全犯罪の16%に過ぎないのに、日本は全犯罪の43%に達してい
ること、暴力行為の残虐性においても、酒鬼薔薇事件のような猟奇性と残虐性とい
う点ではアメリカ以上であると指摘している('98.2 朝日)。
 教育問題に関し、一億総評論家時代と言われて久しいが、もはや、「評論すれど
実行なし」に止まっていることは許されない状況にまでなっている。
 それでは当面の緊急的措置をどうするか。
 佐藤は、所持品検査の方法より仲間と協力して抗争を調停する学習、暴力による
解決を思考による解決に置き換える学習など、暴力に対抗する知性と想像力を育て
る教育を正規の授業として取り組むことを提唱している。実は、すでに、この暴力
防止プログラム(CAP)を教え「生きる権利」を子に教え、暴力に負けぬ心を育て
ることを通して成果を挙げ、全国に広げつつあるのが、日本CAPトレーニングセン
ター(代表 森田ゆりFAX 0798-54-8337)です(絵本『あなたが守る あなた
の心・あなたのからだ』童話館出版)。
 長期的には、何と言っても、学校教育が担わされている、教育における不平等と
教育達成の不平等、そしてそこから派生する社会学的な問題の解消だろう。

   現在は、どこの文明国でも、知能を高めるためとか、産業を振興するため
 とか、進歩を確実にするためとかという目的で教育を行っている。
  (中略)われわれは、現在の教育によってわれわれの子どもたちを、競争
 の激しい分裂した社会に適応させようとしている。攻撃本能はすばらしい
 機会を与えられている。が、その攻撃本能は、他の子どもたちに向けられ
 ている。席次と成績と進級のために、休むことを知らない闘争を続けられ
 ている。つまり、われわれは人間に差別をつけるためにー分裂させるため
 に教育をおこなっているのである。こうして、われわれのすべての努力は、
 社会の分裂をつくり出すために費やされているわけである

    これまでの我が国の教育は上から教えこむ教育であり、詰め込み教育で
 あった。生徒はそれを一生懸命暗記して試験を受ける。よい点をとるため
 であり・・・・その方が就職に都合がよいからであり、大学で学ぼうとい
 うのも、それが立身出世のために便利だからである

  引用文前の「現在の文明国」とは、引用元の『平和のための教育』(ハーバー
ド・リード)を著した1949年当時の各国を指す。ここでリードが言う攻撃本能と
は死の本能と命を軽んじることと同義。引用文後の「我が国」とは、1945年終戦
直後の日本。当時、くりかえし批判されてきた、競争心を煽って、推し進めてき
た、「画一的」な、戦中の「死に至る教育」を招いた明治5年学制公布の、「学問
は身を立てる財本」という教育観との訣別を宣言し、民主主義を国民に定着させる
新教育の初心を唱った『民主主義』(文部省)の一節です。
 ほぼ50年前の警鐘と反省である。1998年現在、果たしてこの状況は改善された
といえる状況にあるだろうか。それとも歴史は繰り返しているのであろうか。

2。 convivialityかつconsumationな<遊び>
 ここまで読んだ方は、冒頭からの書き出しが本稿テ−マ「『遊び』の読書に遊
ぶ」とどこでどうつながるのか疑問に思われるだろうが、1970年当時、現在の学
校の様式に基づく限り、あらゆる企ても「すべての人に等しい教育を受けさせるこ
と」はできない相談だ、と断罪するイリッチの「社会の学校化」批判は、彼の思
想、「convivialityを求めて」の帰結であって、現代社会における人間の生活から
convivialityを奪うものとして、高度医療化、高速道路交通網と並んで、この学校
化批判がある。
   このイリッチの、『Tools for conviviality』(1973)の日本訳は、『自由の
奪回ー現代社会における「のびやかさ」を求めてー』(佑学社)。ここでは
convivialityは「のびやかさ」と訳されている。ところがこの訳に反対し、『コン
ヴィヴィアリティのための道具』(日本エディタースクール出版部)とそのままの
ものもある。なぜなら、社会の学校化を批判するイリッチが、この語に込めている
ものを要約すると、

  知識と情報を特権層に独占させてはならない、できるだけ多くの人々に
 共有可能にさせるべきだ。そのためには、学校という装置をはじめとする
 諸制度でもって、訓育の道具と化した教科書の知識を押し付けている状態
 を、『みんなで一緒にいきいき楽しい』(conviviality)ものに変えなけれ
 ばならない

というように、社会・教育改革の方向性まで含み、とうてい「のびやかさ」という
日本語一語で表現できるものではないからというのである。

 教師になって約10年の20数年前、「数学」の前で立ちすくむ大量の生徒を前に
した私は、詩人シラーが「人間が、言葉の完全な意味で人間であるとき、彼はいつ
でも、遊ぶ人間である。そして遊ぶときにこそ彼は完き人間となっているのだ」
(『人間の美的教育について』)とまでいう「遊び」に興味をもち、関連する本数
冊を読みすすむうち、単なる遊びと考える「遊び」観は変える必要があると感じ
た。そして、シラーは、労働もまた、遊びと学びと同じ関係にあることを説いてい
るが、驚くほど多くいる遊びの研究者のほとんどが、働くことと学ぶことが嫌々に
行う強制された行為になっている現状を、喜びと楽しみとの源である「遊び」と固
く結びつけたいと努力している。そしてそれはまた、学ぶ学生や働く人々の少なく
ない部分が、そこから急いで解放されたい拘束・苦役であるかのように気晴らしを
「遊び」に求めている、この歪んだ現代の「遊び」観をも是正しようとするもので
もある。

    人間と人間との、心と心との接触によってのみその人間性の真価を成長
 させる

ことを教育の目的というペスタロッチに異存のある人はいないだろう。
 ところが、現状がそれどころではないことは周知の通り。

  社会の結合、社会の訓練、社会のモラールこそ、教育の目的であり、あ
 るいはあるべきものである

と考えるリードは、攻撃的あるいは破壊的本能を無害なものにするには、「教育
は、感覚や手足や筋肉を通して流れ出るもので、はじめから抽象能力を通して行わ
れるべきものではない」(『エミール』)というルソーをさらにすすめ、

  教育は、芸術による教育であり、体育による、あらゆる種類の創造的な
 遊びによる教育でなければならない。(中略)絵画をみるよりはむしろ絵
 を描かなくてはならぬ。演奏会へ行くよりは、楽器を使って遊んだほうが
 よい

という「事物によって教育する」こと、「人々を分裂させるのではなしに、結びつ
けるように教育する」ことの二つの原則を不可分のものと提唱した。なぜなら、

  ひとりの子どもが、独力で、物を支配し操作する、その成果は知れたも
 のだ。(中略)彼はやがて、協力と互いの助け合いができたときにはさら
 に成果をあげ得るものだということを発見することになろう

と。
 こうした、私の「遊び」をめぐる思索の結論は、リードの言わんとする「遊び」
を、俗にいう「遊び」と区別するために、バタイユのいうconsumation 「(生命
を)充溢し燃焼しきる消尽」(『呪われた部分』1945)を伴うconviviality な遊
び(以下、 consumation&convivialityな<遊び>)と考えた。なぜなら、リー
ドが、「農民は攻撃的でない」のはなぜか考察した結果、「農民の肉体と精神とは、
自然界の毎日毎日の移り変わりのリズムと一つになっているからである」「彫刻家
や画家達もまた、破壊的な衝動をあらわそうとする欲求を持ち合わせていない
人々」で、それは「手を使って素材に形をあたえ、操作をして創造的な活動に従っ
ている」ことによると結論していることと符合する。このような具体例が現代にも
ある。いま注目されている「聴く人、歌う人に深い安らぎを与える花や木が出す音
を聞こえるままに音楽で伝える」『癒しの自然音楽』(リラ研究グループ自然音楽
研究所1996) であり、カリフォルニア州が教育改革の一環に一千を超える公立中
学に菜園を取り入れている。それは、かって、荒れに荒れた公立中学校で、菜園づ
くりとその収穫で昼食づくりを始め、継続するうちに、子どもたちは少しずつ穏や
かになった、という事実からであった('98.3.17 朝日・天声人語)。

 先日、「高校中退者2.5%に達する」とマスコミを賑わした。私が20数年前体験
した「数学」の前で立ちすくんでいた生徒たちは、いまやもっと規模を大きくし
て、「学校」の前で立ちすくむ不登校・登校拒否・中途退学という現象を呈するに
到っているわけです。現在、不登校・登校拒否を公に認める動きや不登校の子ども
の「心開くきっかけに」と、パソコン通信やインターネットを導入する自治体や民
間を補助する事業を文部省が増やしつつある(読売'98.3.10)。こうした様々な
緊急措置的努力は必要ではあるが、convivialityでない学校制度のもとでは、けっ
して本質的な解決策ではなく、制度ではあっても、学校を構造的にconvivialityな
道具にすることが課題というのがイリッチ。なぜなら、不登校・登校拒否は、個々
の子どもたちに事情の差異はあっても、その本質は、convivialityでなく、
consumationさせるものでない学校という制度への抵抗・拒否なのであり、学校
や教科書の制度的あり方を変えることも伴わなければ不登校・登校拒否は拡大再生
産されるというもの。簡潔に言えば、「学ぶ対象や機会を自由に選択できる」制度
の確立こそが根本的手だて、というのである。
 彼はそのような道具として、比喩的に電話をあげ、

  誰でもコインさえ持っていれば、自分の選択によって人にダイヤルする
 ことが出来る。(中略)。官僚は、人々が電話で相互に話し合う内容を規
 制することはできない

という。お気付きのように、この根底には、官僚・テクノクラート(素人立入禁止
の聖域をつくる様々な領域の技術者たち)批判がある。少子化社会の到来を機に、
欧米に大きく遅れている一学級生徒数減を実現しようとしない教育政策、学校独自
の裁量を保証してこそ実現可能な「特色ある」学校づくりを中央集権的な号令で達
成しようとする権力発想、教員養成大学(学部)のリストラ(ひいては教員のリス
トラ)を断行する教員養成策、そしてその極め付けは、産学官連携における工学技
術偏重の傍ら、教育をはじめとする人文系の冷遇。こうした日本の文教政策ではイ
リッチのいう制度改革などとても期待できそうにないと思うのは私だけだろうか。
私は、選択権が徹底して学ぶ側にあり、管理・強制が通用しないことを保証された
インターネットに大きな期待をしていますが、すでに規制の動きが目立ちつつある
現在ここも楽観視できない(後述)。
 私は、イリッチのconvivialityの概念は、かってロマン・ロランが、

  空気は我らの周りに重い。旧い西欧は、毒された重苦しい雰囲気の中で
 麻痺する。偉大さの無い物質主義が人々の考えにのしかかり、諸政府と諸
 個人との行為を束縛する。世界が、その分別臭くてさもしい利己主義に浸っ
 て窒息して死にかかっている。世界の息がつまる。もう一度窓を開けよう。
 広い大気を流れ込ませよう。英雄たちの息吹を吸おうではないか。

と、ベートベンの生涯に夢を託し(『ジャン・クリストフ』)、当時の澱んだ世界
に新しい息吹を吹き込もうと呼びかけたのと同様、現代の澱んだ世界に、「新しい
息吹を」と訴えていたものと解釈している。
 世界的に大きな影響を与えた思想家エーリック・フロムは、イリッチの『自覚の
祝祭ー制度変革の提唱』(1969)に序文を寄せ、「ナンセンスだと怒り出す反応
しかできない人たちは別として」と評論家の存在を予告しつつ、

  人びとに創造的ショックを伝えることにより彼の思想は、新しいはじま
 りのためのエネルギーと希望を刺激するのに役立つことだろう

と述べている。
 そしてフロムの予告通り、このconviviality思想による現代社会への警鐘を「近
代を否定する」傲慢と一蹴する山崎正和(劇作家「近代の擁護」1994 PHP)の評
論がある。しかも、山崎はこの評論で、現在のインターネットのようなスタイル、
グーテンベルグ以来の印刷メディアから、放送メディアへの移行と普及の『メディ
ア革命』を予言した、と評価の高いマクルーハンも俎上にのせている(後述)が、
「評論すれど実行しない」評論家をよそに、世界は、「新しいはじまりのためのエ
ネルギーと希望を刺激するのに役立て」て、イリッチやマクルーハンの思想を、ま
ず、「遊び」の世界で実現し、徐々に、技術や産業あるいは経済面に多大な影響を
与え、人間存在のあらゆる段階に影響を与えるに到っている。そのツールが、分散
型コンピュータであるパーソナル・コンピュータ(以下、パソコン)であり、世界
を席巻しつつあるインターネットです。
 大型コンピュータをツールに集中管理システムで世界を動かす官僚・テクノラー
ト、そんな中央集権的なシステムに風穴を開けようとしたのがいわゆるハッカーと
呼ばれた人々。その強力な手段のひとつが、大型コンピュータの分散化、つまり、
大型コンピュータによる集中管理システムのツールをパソコンに置き換えようとい
うものでした。インターネット、この前身は、軍事的ネットワーク、この、政府や
大企業、大学など大組織占有を終わらせ、世界の人たちのコミュニケーションに役
立つネットワークにしようと変化させてきたのもまたハッカーたちでした。そして
この人たちの行動の指針に、イリッチをはじめ反体制思想家の理想があったと言わ
れています。高度コンピュータ技術者であるハッカーを、日本をはじめ、世界で
は、永らく、プログラムの弱点を突き、システムの中枢に入り込んで、コンピュー
タ内のファイルの改竄や、不正な侵入経路(裏口)をつくろうとする、はたまたコ
ンピュータウイルスをまき散らす人びと(クラッカー)と同義に使われていた。パ
ソコンを作ったのはヒッピーであったという反感を抱かせるキャンペーンすらあっ
た。こうした偏向は、彼等のこの思想的背景が少なからず影響していたのであろ
う。
 イリッチの思想と、インターネットやパソコンについての関係はあまり知られて
いないが、彼はコンピュータネットワークがまだ普及していない1970年に、学校
の改革とかかわって、放送網や通信網といったハード的な意味合いの強い「ネット
ワーク」より、コミュニケーションを編み合わせるという、連帯的な「ウエブ」
(Web)にならなければならないと言っていた。このイリッチの発想が、ハッカー
たちをしてインターネットを爆発的に普及させることになった、World Wide Web
(WWW)を考案させることになったのでした。(古瀬・広瀬『インターネットが
変える世界』岩波)
 私は、このパソコンと、インターネットもまた、Tools for convivialityと考え、
その教育への導入は必然と考える。

3。consumationかつconvivialityな学びのために

  大科学者の多くも、・・・魅力的なパズルに専門的関心のすべてを注い
 だ・・・。たいていどのような専門でも、パズル解き以外にすることはな
 く、しかもそれが普通の道楽と同じように彼を耽溺させる
                                            トーマス  クーン

 そして今、続々と教育現場に導入されつつある。しかし、便利さだけでパソコン
利用を歓迎したり、技術の「進歩」として盲目的に受け入れることはすべきではな
く、その根底に流れるイリッチやマクルーハンの思想、そしてハッカーたちがそこ
に実現しょうとしてきたこととの関わりを忘れては、いつでも、「本末転倒したコ
ンピュータづけの」教育に転化する恐れなきにしもあらずなのです。すでに某教育
大学で、「<教育工学の研究者>と自負している人々が、『本末転倒したコン
ピュータづけの』教育を<情報教育>と呼んでいる。私は数学と離れての関わりは
拒否したい」というような批判が起こっているのです。
 教育におけるパソコン利用でも、あるいは、それをも包括した、科学技術の世界
でもconviviality&consumationな<遊び>を求めるさまざまな動きを見ることが
できます。
  まず、I.アシモフは、従来の

  定められたカリキュラムに従い、それを義務として遂行し、学ぶ者を受
 身にせざるをえなかった『教育』

と対比させ、パソコンを学びのツールにすることによって、

  好奇心の所産であり、創造につながる本来的な意味の『学習』という行
 為をその利用者に無意識のうちにさせてしまう

「新たなる学習の時代」を招来できると高く評価した。そのもっとも著名なものは、
シーモア・パパートのLOGOです。彼もまた、

  ロゴによってしようとしていることはすべて、子どもの知的な仕事と肉体
 的な活動とを分離するという、古典的な学校の傾向に真っ向から立ち向かう
 ことです。我々の「タートル」ー道具でもあり、陰喩でもありますがーこれ
 の本来の意義は、抽象と具体の間を移行する対象だということで、それで子
 供は自分の直観的に知ったことと、抽象的な思考との間に橋を架けることが
 できるようになるのです

と従来の学校教育を批判する(『マインド・ストーム』1980)。
 このパソコンというメディアを利用することによって生まれた教育批判は、教育
にとどまらず、「情報とメディア」をめぐる歴史的変化の一環です。
 かって、「一億総白痴化」、「文化の薫り」のひとかけらもないなどと酷評され
たテレビ番組。また電子版チラシ広告と酷評されるインターネットホームページ
('96.7『VOICE』牧野昇)。ところが、ここでも評論家大先生方の悪評を他所
に、そうした性格を益々増幅するかのように、クイズ番組や街頭取材のように、素
人が登場する即興的な番組、バラエティ番組が人気を集め、くだけた飾らない表現
や自然体で演ずる俳優が視聴する大衆の心を捉える。その一方、富裕な自治体でも
大企業でもなく、はたまた有名人でも、コンピュータ技術者でもない、小さな自治
体や企業、そして私のような無名の個人のホームページがつぎつぎに登録され、空
前絶後のインターネットブームとなっています。
 こうした評価を受けるのはなぜか。それは、視聴者参加に典型的に現われてい
る、一方的なお仕着せ、受信・鑑賞だけのメディアを拒み、「個人参加・関与」の
求めを実現しているメディアの変化にあります。
 こうした時代の到来を喝破していたのが、マスコミ批判、メディア論のマクルー
ハンであり、物理化学者にして哲学者マイケル・ポラニ−の『暗黙知の次元-言語
から非言語へー』1966、『個人的知識』1960でした。
 悪評高いテレビメディアを擁護した理論、それがマクルーハンの『グーテンベル
グの銀河系』や『メディアの理解ー人間の拡張』でした。出版された1970年代、
同時代の読書界に衝撃を与え、そして、いま再び、脚光を浴びている。世界を席巻
しつつあるインターネットをも予言した、という評価からです。
 マクルーハンは、語りと音響と映像の視聴覚メディアと活字メディアを比較し、
前者が、文字による言葉の伝達力に頼らないことにより、人びとの教育程度によっ
て受容が決定的に差別され、結果としてメディアの階層分化をつくり出してきた後
者に優るとした。一方、インターネットの死命を決するのは、コンテンツ(内容)
がいかにマルチメディア的かということと、情報発信という側面から見たとき、政
府・企業・大学などの大組織と対等に個人の情報を世界に向かって発信できる双方
向性の保証にあります(規制の危機を伴いつつ)。
 マクルーハンは、ルネッサンス以来の活字メディアが、この文明独特の論理的な
思考法や、理性優位の世界観、さらには近代の個人主義やナショナリズムを生み出
した。それと同様に、電子メディアが将来の人間の精神に抜本的な革命をもたらす
だろう、と予言した。ここ数年の各分野におけるコンピユ―タ利用技術の充実ぶり
を見ると、小型パソコンをはじめとする電子メディアは、技術や産業あるいは経済
面に多大な影響を与えたグ―テンベルグの印刷術やワットの蒸気機関をはるかに凌
ぎ、人間存在のあらゆる段階に影響を与えつつあるというのもあながち誇張とは言
えない。

 知識を非個人的なものにしようという現代文化の傾向が、事実を価値から、科学
を人間性から引き裂いてしまった、と批判するポラニーは、主観を排し、客観的な
知を確立するのを科学の目的、とする従来の科学論と知識論に対し、「科学の超然
性という客観主義的で非個人的な理想は有害極まる誤謬の源ともなる」、とすべて
の理解の行為における知る人の個人的関与に注意を払うような理想を対置した。
 人間が知識を知り、また、知った知識を真実であると認めるのは、すべて経験
を、能動的に形成あるいは統合する暗黙的な力や個人的関与・主体的行為によって
形づくられる、とする暗黙知の理論、個人的知識の理論を展開した。
 このポラニーの理論は、従来の科学論と知識論の最も基本的な前提に大きな衝撃
を与えたが、このことは、「科学と教育の結合」をめざしてきた教育研究にも深刻
な問題提起であった。なぜなら、その研究はつまるところ、従来の知識論・科学論
との符合を求め、教育に科学の後追いをさせる結果を招いてきたからであった。従
来の教科書、科学の体系性を、目次を持ち、章立てを持ったものにした活字メディ
アとして学ぶ個人に対峙させられていたのだった。
  「文化の薫り」もない番組、電子版チラシ広告などと蔑んでいても何の解決にも
ならない。主要な課題は、そんな電子メディア時代の文明独特の人間精神に花を咲
かせる<学び>をいかに創り出すかであり、

    ある意味で、科学というものは、あるいは人間の思考というものは、一
  種の遊びだということを見なければならない。抽象的思考というのは、長
  期的な戦略や計画ができるようになるために、人が直接の目標をもたない
  活動を行えるようになる、知性の幼生成熟である(他の動物は子供のとき
  にだけ遊ぶ)                         J.ブロノフスキー

この「知性の幼生成熟」をいかにして実現するかである。ポラニーも、『個人的知
識』を、科学を統合された文化の中のその正しい位置に復帰させる一助にならなけ
ればならない、と。そしてそれは、<全体>としての<個人>の経験の総体に意味
付けをしようという持続的な努力の一部分となるのだ、と言う。

4。「タノシサ」は創造性と技術的熟練の関数である

     その対象が児童であれ、成年であれ、個々人であれ、人民全体であれ、
  あるいは自分自身であれ、教育は動機を創造するところに存する。…な
  ぜなら、いかなる行動といえども、その遂行に不可欠なだけのエネルギ−
  を提供しうる動機なしにはなされないからである  シモーヌ ヴェイユ

 「定められたカリキュラムに従い、それを義務として遂行し、学ぶ者を受身にせ
ざるをえなかった『教育』」(アシモフ)実践ならば、教師はパソコンにとって替
えられるまでになっている。「そんなことは、せいぜい幼児・初等教育のレベルま
でであって、中・高等教育では不可能」と反論する向きもあろうが、けっしてそん
なことはない。数学(教育)を例に挙げれば、ここ数年、教育ソフトとして様々な
賞を受賞している数学ソフト『カルキング』は、大学数学の一定程度のレベルま
で、数学書あるいは教科書にある数学記法通り(数学用の有名ソフトがそれ独特の
記法を覚えなくてはならないのに)の式をワープロ感覚で書き、その後少しの操作
を加えると、即座に計算し、解答が導かれる。また、かなり高度で、複雑な数学記
法通りの式のかなり複雑なグラフも即座に描いてしまう。このように、エキスー
パートシステム(特定分野の熟練者のノウハウをプログラミングしたもの)なら
ば、「自らの意志により、自らのペースかつ方法で、ある知識を吸収していくとい
う、本来的な意味の『学習』という行為」(アシモフ)をその利用者に無意識のう
ちにさせてしまうまでになったパソコンの方が「教師」より優れているというとこ
ろまで来ている。コンピュータとチェス・オセロの世界選手権者が競い合いコン
ピュータが勝利したように、カッコ付きの教師ならパソコンに駆逐されるところま
で来ているのである。そしてそれはなにも数学だけとは限らない。
 しかしお気付きのように、数学ソフト『カルキング』には数学解を獲得させるこ
とはできても「数学教育」はない。パソコン操作と世界共通の数学記法をワープロ
で打ち込むロボットとしての作業者育成だけと極論しても差し支えないだろう。
 それでは(数学)教師の存在の余地はどこにあるのか?
 高等数学カタストロフ理論の創始者 ルネ・トムは単刀直入に言います。

  数学の教育が立ち向かわねばならない真の問題は、厳密性の問題ではな
 くて、「感覚=意味}の構成の問題であり、数学的対象の「存在論的正当
 化」の問題である

と。また、破綻したアメリカ数学教育現代化運動を批判した ポリア他75名の数学
者たちは、もっと具体的に数学教育、従って教師の役割を定義する。

  数学を知っているとは、数学をすることができるという意味です。つま
 り、数学的言語をかなり流暢に使うこと、問題をやること、議論の仕方を
 批判すること、証明を見つけること、そしてこれが最も重要な活動と思わ
 れますが、与えられた具体的場面のなかに数学的概念を認めること、ある
 いは具体的場面から数学的概念を抜き出すこと。こうしたことができると
 いう意味です。
  
 ロラン同様、数学(教育)に警鐘を鳴らしていたのが、現代数学に大きな足跡
(原爆開発で悪評もあるが)を残した、フォン・ノイマンです。
 抽象化、つまり、数学のための数学、への傾向に対し

  或る数学的学問が経験的源泉から遠ざかるにつれて、ましてそれが『現
 実』から生まれた想念の息吹を間接にしか受けない第2代、第3代のもの
 になってくると、その周辺には重大な危険がまとわりつく。・・・・そし
 て一度この段階に達すると、・・・その治療の方法は源泉に立ち返って・・・
 経験的想念を大なり小なり直接に再注入すること、これ以外にはないよう
 に思われる

と、源泉に立ち帰る努力をしないで、抽象的な数学思考のできない者「この門入る
べからず」(プラトン)と嘯いていることは許されない、と言う。
 やはりカタストロフ理論で高名な数学者 E.C.ジーマンは、数学活動における
技術的熟練と創造性の関係分析に、尖点カタストロフのグラフを適用し、その応用
例として、小学校から大学までの数学教育における学生-教材-教師三者の相互関係
を分析して見せ、人間行動としての教師の教育過程を浮かびあがらせる。(『研
究ー古代と現代ー』第3章「こんにちの教育と研究」1974 仙波元訳 近数協セミ
ナー)。
  この分析を詳しく紹介し、各位(数学以外の教師も含め)の授業の参考に供し、
「『遊び』の読書に遊ぶ」ことを終わりにしたい。

   制御空間のなかの5本のグラフは、「タノシサ」が創造性と技術的熟練の関数で
あることを示し、つぎの2つの仮説が、ジーマンのいう数学的タノシサを左右する
単純化したもの。
  1。数学的タノシサは、創造性の増加関数である
  2。創造性(単純性の修得)は正規因子で、技術的熟練(複合性の習得)
      は分裂因子である。
 その意味するところを小学校教材で言えば、
  (1)のグラフは、古い流儀の計算ドリルをあらわしているが、これはたいへん
ワビシクなる。(2)は、その反対のアプローチで、子供をただ遊ばせるので、
まったくタノシイが、熟練はあまり生まれない。(3)はもっともよい現代的アプ
ローチをあらわしていて、はじめは子供をー例えば、玉子の容器と石で遊ばせなが
ら自分で乗法を発見させ、それから子供が元気づいて夢中になって練習書を埋め、
技術をマスターするというわけである。
  ジーマンは、この制御空間のなかの5本のグラフでいろいろなレベルの教育技術
の分析をして見せている。例えば、大学教育で
  (1)のグラフは、わるい講師がわるい材料を与えているのをあらわしている。
学生ははじめ退屈し、つぎにはワビシクなる。(3)は、良い講師が良い材料を与
えているところで、学生は最初に興味をもち、それからエキサイトする。(4)
は、わるい講師が良い材料で教えているときでーこの講師は動機づけなんかまった
くなしで、コースの大半を、機械装置を据え付けるような調子で使ってしまい、最
後の2、3回の講義で、それらを全部持ち出して主要な定理を証明するといった手
合いだ。よい学生は42の点で突然眼がひらけて、グラフの下のシートから上の
シートへ、つまり、機械装置のワビシサ41から定理のエキサイト43へとカタス
トロフ的に飛躍する。しかし、可哀想に、クラスの下半分は、コースの終わりごろ
には一般に脱落していて、ワビシイ点4に釘付けになったまま、ついに眼はひらけ
ないのだ。最後に(5)のグラフは、よい講師がわるい材料で教えているのを表わ
している。学生は51の時期には、講義を楽しんでいる。ところが52で、自分で
再構成する段になって、学生は突如として、材料がきわめて退屈だということに気
がつく、そして上のシートから下のシートへカタストロフ的に落下し、最後に、
53のあたりで、幻滅のような状態で終わる。
  どの場合にも、結果の学生のタノシサは、この道を上図のグラフの面まで持ち上
げそれを辿ればよいことを示す。例えば、(4)の道は、点42の真上でおきる
「よい」カタストロフであがっているのがみえる。
 あなたの行った授業でこころあたりのタイプはありませんか。私も時々陥るタイ
プもあります。
 ジーマンは概略このような分析を経て、学校数学のあるべき姿としては、幾何学
的直観、物理的直観、sense of fun(オモシロサがわかること)がその基礎的成分
であって、数学教師の多くがことさらに強調する第4の成分、厳密さの感覚という
のはひとりでに育つだろう、と結論している。
 consumationかつconvivialityな学びを、幼少の頃から体験させることができる
ならば、個人的な学習のみならず、現在の教育が担わされている、教育における不
平等と教育達成の不平等という社会学的な問題にも解決の糸口を与えることになっ
たであろう、と私は考えるものです。

 「それではお前は何をしてきた」という反撃を覚悟の上で、「『評論すれど実行
なし』の風潮に終止符を」に始まり、評論に終始することを酷評してきた。私に
とって焦眉の急は数学教育、これをconsumationかつconvivialityな<遊び>の観
点から改造することに着手したのが20余年前。学ばされる対象として、学ぶ者の
前に超然と立ちはだかる数学(教育)を、<遊び>=学びに改造することをであ
る。その後の、パソコン支援による教育(CAI)やWAI と命名している「Web支援
による教育」を含め、教育・心理・数学各分野の識者が、私の仕事に評価を交えた
内容を掲載している書籍数点を挙げておきます。 なお、最後のものを除き拙稿の
紹介は省いた。
 閲覧できる機会があればご覧になられてご意見などを賜れば幸いです。
  <私の仕事紹介文献>
   学習研究社 柴田義松編「教育課程編成の創意と工夫」
   東大出版会 佐伯   編「認知科学選書4ー理解とはー」
      国土社   銀林 浩著「人間行動からみた数学教育」
   有斐閣   柴田義松編「授業入門シリーズ」「何をどう教えるか」
   東洋館出版社「教師教育」第2巻 佐藤 学
   岩波書店    シリーズ授業 算数ー分数・式のたて方ー
      ぎょうせい 「日本の教師」 第6、9巻
   東大学校教育学研究室「確率概念の教授=学習」 菅岡強司(現 上越教大)
   東大教育内容研究室  「教科理論の探究」 佐藤 学(現 東京大)
   北大教育方法学研究室  「教授学の探究」成田雅樹(現 群馬大)
   福井大教育学部    「ベキタイル教材の教授学的検討」寺岡英男
   昭和57年度文部省科学研究費補助金「奨励研究B」
        「質的データの数量化とコンピュータによる統計解析」