(初出:雑誌『数学教室』(国土社)('02.2)“総合学習を支える数学”総論)

教科学習・総合学習のあしたを紡ぐ ために

1.学び心はsense of fun、sense of wonderから
 現在、私が行っている教育の研究と実践は大きく分けて三つある.
  ひとつは、すべての学ぶ者、特に、働く人々に自立した批判的思想としての科
学(数学)力を育むことをめざし、子ども向けには『君たちの遊びに』、父母・
教師・社会人向けには『子どもの遊びに』あるいは『あなたのレパートリーに』
と題して行う、面白さ、驚き、不思議体感など“こころにひびく”数“楽”・
“戯”術に親しむことから科学(数学)・技術にまでつなぐ実践.二つ目は“人
間の脳の働きの退化”に繋がりかねないコンピュータ・インターネットをはじめ
としたIT依存過多の傾向に陥る危惧に対し、従来のアナログ的な教育手法や芸
術・文化との適切な融合による教育の研究と革新をめざす、“デジタルとアナロ
グの適切な融合の学習環境”を構築する「コンピュータと教育」の内容づくり.
三つ目は、上記二つと絡め合いその内容を部分あるいは条件として“総合”する
「教科学習・総合学習のあしたを紡ぐ」研究と実践である.

2.誰もが営む日常不断の“学び”と“総合”=日常不断の総合学習
 一番目の一部をテーマ名で列挙すると、○パズル「ハノイの塔」の輪の移動で
絶対失敗しない手順は?○街角オリエンテーリングで交差点を通る人数は?○ス
イッチ回路で遊ぼう○二進法&トポロジー&力学マジックなどである.
 いずれの教材も“好奇心から新たなチャレンジへ”を標榜している.チャレン
ジの対象は数学や数学遊具づくり、そしてメカトロニクスである.
 私の教材づくりには共通点がある.それは、いつの時代にも、生活や仕事にお
いて大人、子どもを問わず能動的に生活(遊び)し、その生活(遊び)を続けて
行くために積極的な学びも行うものだ、ということに依拠しよう.これを教育の
原点にしようとすることである.当然ながら、時代によって内容や評価が異なっ
てくる.現代ならば、さしずめ、多くの若者が夢中になる楽器演奏や作詞作曲に
作画(大人の多くはあまり評価しない)、若者に加え女性やシニアの多くも取組
むインターネットをはじめとするIT技術の習得・利用(忌み嫌う人もいる)を
挙げることができる.私はどんなものも評価したい.それどころか、それらと、
教師から技術者、科学者に到るまで、日々行っている知的営為は本質的に同じと
評価する.なぜなら、その営為の核心は、要約すると、仮説設定と自己修正を交
互にくり返し行う“学び”と“総合”の絶えざる営み(“学びと総合の試行錯誤”
としておく)である.これを私は“日常不断の総合学習”と呼ぶ.

3.学んだ以外の課題に対処できる数学教育を求めて
 私がこのような教育観を持つに到ったのにはつぎの実学体験の影響が大きい.
 私は戦後日本の転機であった昭和30年代中頃、生活単元学習が「経験主義・単
元学習に偏りがあった」と改訂が発表された翌年に工高を卒業・就職、日本で最
初のアルミ車両の製造研究に携わる中、良い意味でその破綻を身をもって体験し
大学工学部に進んだ。ハニカム構造の車体研究、アルミ窓枠のフラッシュバット
溶接による試作・破断実験、阪大音響工学研での車内音響に関する諸実験等々.
いずれも当時としては初物の研究・設計・試作・実験・Feed-Back に携わる中で、
所与の状況の下で、着想や暗示を引き出し、問題意識を確立し、適切な概念を理
想化し、形式化し、可能な結論を直観的に引き出す.議論進行によっては直観的
な推論に演繹的な証明をつけなければならない.また、教科書や例題にない現実
の問題に対しても、直観を使い、当て推量や試行錯誤を行うこと、知っている結
果と関連づけること、代数的な命題に幾何学的な意味をつけること、知った結果
の一般化など、非数学的考察から数学を創ることに連なる実学の体験である.
 こうした実学体験を通じて感じたのは、教科書数学を学習することを求められ
るときよりもずっと自信を持つこと、かなり高度な知識・技術であっても必要に
迫られれば吸収することはさほど困難なくできること.そして何よりもつぎのよ
うに要約できる受けてきた数学教育への疑問・懐疑であった.それは
 (ア)数学以外の数理科学的な実際問題を数学化する教育に十分でない.
 (イ)数学的手段が十分でないため、どのようにして数学的にアプローチして
    良いかすらわからない諸現象に対処する教育に弱い.
これは応用というレベルの問題ではなく、それ以上のレベルが潜む課題である.
   模索中の10年程経って分かったことだが、私がこう感じていた当時は、まだ
世界的にも数学や数学教育がこの課題に応えられるものになっていなかったよう
だ.ポリアやノイマン、クラインのように、数学の生い立ちやその経験・源泉回
帰を説く数学者や、フェラ−やサーティ、ケメニーの確率論の応用やORの数学、
新しい数学の著書・翻訳本が出始めたのはその頃からであった.こういう制約の
あった当時、当然ながら、私の疑問・懐疑は工学では満たされず、数学史をはじ
め科学史、科学・技術論を渉猟するにとどまらず、認識論、哲学にまで手を伸ば
し、その挙げ句、数学物理学科へ転科したが、なお満たされなかった.数教協に
出会ったのもそんな時であり、水道方式の計算体系をはじめ「なぜ」、「何を」、
「如何に」という視点からの数学教育現代化構想には世界の数理科学者の所説に
類を見ない魅力を感じた。また近代化運動の“量”を超えようとする量の理論や
現代数学の教育への位置付けは、(ア)、(イ)の課題も対象にできる可能性を
感じさせてくれた.しかしこれにも満足せず、以下述べる“学びと総合の試行錯
誤”のすえ「ベキタイルの代数」(1974)をはじめとした教材開発に到った.
 
4.誰もが営む日常不断の総合学習と教科学習のはざま
 私が教育の原点と呼んだものには、戦後の数教協運動の歴史をご存じの私と同
年輩あるいは高齢の方々は、「山岸は遠山さんが先頭になって闘い改めさせた生
活単元学習を蘇生させよ」というのかと眉をひそめるだろう.ここでは生活単元
学習そのものが私の言う原点に正しく立脚していなかったということで書き進む.
なぜなら、日常生活で積極的に“学びと総合の試行錯誤”をくり返す当事者であ
っても超え難い壁がある.それは、容易にその“日常”を超えられないというこ
と.つまり、当事者がその生活や仕事に必要以外の対象を“学び”の対象にする
ということは自然発生的にはほとんど望めない.ましてや理科や数学においてお
やである.しかし、これは教育という営みや学校の存在を必然ならしめるのであ
るから問題はない.問題は、その(学校)教育が、“日常”に行われている総合
学習を“日常”を超える対象にまで学びを組織できるか否かにあり、生活単元学
習はそれに失敗したのであった.しかし失敗は何も生活単元学習だけではない.
逆に日常不断の総合学習を組織しきれず、“日常”を超える対象を教育対象にす
るため、演繹法で書かれた教科書による教科学習は、形式主義に陥って、教科書
に書かれたことをよく理解し、その範囲で応用問題を解ける訓練を受けた学生は、
教科書に沿っては思考できても、教科書の範囲を超える発想は容易ではない.そ
れどころか、演繹法で数学教育を受け成績の良い学生は、教科書に書かれていな
い帰納的な展開については否定すらすることがある.
 だからと言って、私のいう原点を尊重する教育は帰納的であれば良いと言って
いるわけではない.つまり、皆が納得する具体的な事実から、納得づくで(教科
書内容であるような)一般的な法則を導き出すというようにである.文部省がマ
スコミを通じ、「総合的な学習の時間」は「体験学習でなく教科学習である」と
具体的な、事実べったりの体験中心に陥る実践傾向を牽制した.教育において帰
納展開は部分的には許されても全体をそうするのは時間的に不可能であるばかり
か、経験体験を“至上”とする教育否定に繋がりかねない.“凡人は経験に学び、
賢者は歴史に学ぶ”である.“帰納”の正しい位置づけが問われている.

5.仮説検証方式と呼ばれる科学の方法
 実は、私が総合学習の原点にすべしと言っている、“学びと総合の試行錯誤”
はもっと技能的に短くステップ化したサイクルとして表現することができる.
 何らかの課題に直面したら
step1)理想的な事柄や状況を実現することを目標に掲げる.
step2)次に、a,b,c・・・を修得して、α,β,γ・・・を実行すれば目標達
    成可能だと想定して、各種の修得法や実行法を調べあげ、どれかあるい
    は幾つかを採用する(ここで採用する修得・実行を仮説という).
step3)仮説設定とその試行(Feed-Forward)と実施の可否(評価)、効果の有
    無を検証する.検証の結果如何では2)にFeed-Backし、仮説を修正し
    再試行(Feed-Forward)を繰り返す.
 これは、アリストテレスがアパコーゲーと言い、帰納と演繹のほかの科学の方
法としたもので、仮説を立てることから仮説検証法とも着想(発想)法とも呼ば
れ、パース、デューイのプラグマティズムで結実したといわれている.その後も
多分野において補強され現在に到っている.戦後の生活単元学習はデューイのそ
れを導入したというが果たして正しく教育的に咀嚼されていたかは疑わしい.

6.帰納、演繹、着想すべてを含む全的思考の教育を
 私は、学習は、帰納(Induction)・演繹(Deduction)・着想(Abduction)
のすべて(全的思考としよう)を含み、その中心に位置づけるべきはこの仮説検
証方式だと考える.仮説設定にあたっては、情報とか知識や勘も必要になってく
る.また帰納や演繹も採用される修得法、実行法のひとつに過ぎないのである.
 そして私は教育改革の課題に据えなければならないのは、この全的思考を育め
ない学力形成に汲々としてきたこれまでの教育の革新であると考える.総合学習
はこの全的思考を育む教育体験を教育場面の一部にできるチャンスである.
 私の数“楽”には、小学校高学年から大人まで、現代数学をアレンジした数“
楽”からスタートして、学ぶ者に帰納もあれば演繹もあり、分析もあれば総合も
ある数学活動を経て、抽象的・形式的な数学まで一気に学べる工夫がある.学ぶ
必要を感じた人間にとって、基礎・基本の蓄積に欠ける情報・知識であっても吸
収には積極果敢である.またそこでは「生活経験を理解するために数学の体系を
ずたずたに寸断して」(遠山)学力低下をもたらした生活単元学習の学習形態を
導入する必要はない.現在ではこう寸断させているのは指導要領であり、そして
これを補完する役回りを演じているのが学力低下論者たち.基礎・基本の内実を
問う本質論議から外れ、“基礎・基本の定着が欠かせない”と積み上げ方式に固
執し、受験教育や“まじめな学習”を推奨する内容・時間の多寡で争っている.
 本特集の「総合学習をささえる算数・数学」というテーマに即して言えばstep
1)において何らかの数学モデルを想定することがあるだろう.step2)において
数学は習得対象であったり、解くことに役立つ数学を抽出することが対象になっ
たりするだろう.既成の数学、ましてや教科書数学ではまったく手に負えない数
学手法なり概念形成を必要とするときは全ステップとかかわる.そしてこれを可
能にする教育は、学ぶ者に定理や証明を学習することを求める教育だけでは不可
能であり、非数学的な考察も含め、私が体験したような所与の状況を解析・総合
する数学づくりのくり返しが欠かせないが、現在そうした教育体験の場はない.
 こういうと、必ず「そんな難しい対象は大学数学であって、高校でもない.ま
してや小・中学校など・・・」とか「教育は数学者を育てるのではない」などと
「数学的活動を通して創造性の基礎を培う」と唱われている現在にも従来教育に
固執する声が起こる.いま、教師たちに挑んで欲しいのは、少々古いが、ブルー
ナーが「知的活動は、学問の最前線であろうと、3年生の教室であろうと、どこ
においても同じである」(『教育の過程』1961)といった教育実践の実現、子ど
もを最初の発見者のように体験させることができる教育実践である.そしてそれ
が決して不可能でないことを明らかにすることが私の積年のテーマだった.現代
数学内容を教材にアレンジして行った中学校における私の授業研究と講習会にお
いて、生徒と一緒に作業や学びに参加した小学校教師たちは言う、「課題が本人
にとっては難しくて理解不可能なものであったとしても、興味深い題材に置き換
えてあったり、作業が入ることによって、とっつきにくい意味不明のものから、
何となく興味が持てる、楽しいものになることがよく分りました」と.
 現代は40年前と異なり、所与の状況に対処する数学を抽出するのに数学ハン
ドブックを使うのでなくデータベースに蓄積された数学を使う時代に移りつつあ
る.教育も「知識の宝庫」(デューイ)を身につけさせる時代から、蓄積されて
いるデータベースをActiveに使いこなす教育、発見を刺激したり、行為のための
数学を教えることが必要な時代である.その一端を総合学習に担わせよう.