私は、次のホワイトヘッドの言葉に要約される、「具象と抽象の階段を昇り降りする数学思考を教
育対象に」することを提唱している。

  数学が次第に抽象的思考の領域に入り込んでゆく様子はまことに印象的である。数学はその上
  で、具体的事実の分析という重要な役割を果たすために、地上に戻って来る。・・・ここに、
  具体的なものを攻略するための武器が極度に抽象的であるという、パラドックスがある。
  
 このような問題意識を持ったのは、私が民間に勤めていた昭和30年代の実学的体験がもとにある。
当時、つぎの二点の意味で、「未知との遭遇に対処する」数学思考を育めていないことを数学教育の
根本的欠陥と考えた。

 (1)数学以外の数理科学的な実際問題を数学化する、といういわゆる数学の応用の教育に十
    分でない
 (2)我々に数学的手段が十分でないため、どのようにして数学的にアプローチしてよいかわ
    からない諸現象に対処する教育に十分でない

   数学教育の一般形態は、はじめに数式ありきで、数学モデル、もしくは数学的対象の形式処理を主
眼にしたもの、つまり、はじめに数学的・一般的なものを授け、問題をそれにあてはめて処方通りに
解かす、いわゆる公式あてはめ的・料理本的な数学教育です。これを解くことをいくら積み重ねても、
せいぜい解けるべく設定された問題を解く能力しか身につきません。
 このような従来の数学教育にも教育的価値を持たせることができるとすれば、つぎの数学活動の知
的サイクルの抽象化した数学的対象(問題・理論)や、それから演繹し、さらに抽象を深めた推論な
ども、経験的事象と対応させる「解釈」とか、新しい事象を予測する「検証」というような、新しい
息吹を吹きかけ、蘇らせること、これらをなんらかの形で体験させるように仕組むことです。

                            抽象化・数学化
             現実の問題   → → → →   数学問題・理論
                ↓             ↓ 
    説明・予測 ↓                                  ↓ 解析・演繹
                   ↓             ↓ 
            現実解・検証 ←←← ←   数学解・推論
                          解釈・具象化            

 昭和30年代後の数学とその教育も前述した欠陥を解決するものでなかったことは、つぎのポリア
他75名連名のアメリカ数学教育現代化運動への批判が如実に語っている。

  数学を知っているとは、数学をすることができるという意味です。つまり、数学的言語をかな
  り流暢に使うこと、問題をやること、議論の仕方を批判すること、証明を見つけること、そし
  てこれが最も重要な活動と思われますが、与えられた具体的場面のなかに数学的概念を認める
  こと、あるいは具体的場面から数学的概念を抜き出すこと。こうしたことができるという意味
  です。

 「最も重要な活動」と言われている文章の後段が私の言う「抽象」化の思考過程であり、その前段
が、数学形式を具体的事例に結びつけて考える「具象」化という思考過程です。この前段は、現代流
にいうと「シミュレーション」の一種と考えられます。数学者でこれを意識して初めて系統化したの
がノイマンでした。そしてそのノイマンは

  或る数学的学問が経験的源泉から遠ざかるにつれて、ましてそれが『現実』から生まれた想念
  の息吹を間接にしか受けない第2代、第3代のものになってくると、その周辺には重大な危険
  がまとわりつく。・・・・そして一度この段階に達すると、・・・その治療の方法は源泉に立
  ち返って・・・経験的想念を大なり小なり直接に再注入すること、これ以外にはないように思
  われる。

と語っているように、数学教育のあるべき方向を語っていると思いますが、ホワイトヘッドの数学讃
歌で謳っている「抽象」化と「具象」化の両過程が必要なのです。
 私はこの二つの過程を数学活動の知的サイクルを単純化してダイアグラムとして次のように表し、
前者を「経験的・実際的問題をメディアを介して抽象化する」と言い、後者を「数学形式・問題をメ
ディアを介して具象化する」と言っています。

          →→→  数    学    化  →→→
     ↑ →→ 第1次抽象→   → 第2次抽象 →→   ↓
           ↑  ↑                   ↓↑                    ↓  ↓
   経験的・実際的問題 ⇔ 「まるち」メディア ⇔ 数学形式・問題
           ↑  ↑                ↓↑                 ↓  ↓
           ↑   ←← 第2次具象←  ← 第1次具象 ←←  ↓
          ←←←  解     釈  ・ 翻   訳   ←←←

ここでいう「まるち」メディアには,量(タイルを含む)・シェ−マ(線図,テープ図,面積図,各
種グラフ)からコンピュータ利用までも含む。

  発見を教えることは決して簡単な仕事ではありません。それは学生に、直観を使い、当て推量
  や試行錯誤、知った結果の一般化、知っている結果との関連づけ、代数的な命題に幾何学的な
  意味をつけること、測定、その他数多くの工夫をすることを求めます。
  ・・・数学を作りあげる努力をしている方が、洗練された定理や証明を学習することを求めら
  れるときよりはずっと自信をもつものです。              (M・クライン)

とクラインが言う、未知との遭遇に対処する ー 発見を教える ー ことの困難さの指摘は、いわゆる
「発見学習」好きの日本の教育界に冷静に分析すべき方向を示唆してくれています。特に、新学力観
には猛省を促したい。同時に、つぎのような系統性も考慮に入れるべきことを教えてくれていると思
う。
 解釈・具象化と抽象化・数学化という両方向を内容とする数学特有の抽象思考を養うことは、単に
演繹的な数学思考や応用の教育のためとか、大学教育以前では不可能な教育ということ以上の課題を
含んでいるように思われる。なぜなら、学んだ以外の課題に接したとき、その核心部分を速やかに見
抜き、的確に、創意・工夫を発揮する「実際性」が求められるが、そこでは、恐らく、抽象思考に加
えて、想像する力、あるいは、もっと大きな構想する力とその表現が求められるだろうからです。 
 そしてこれを育むのが、幼少の頃から、長い期間を通じて行う、小さな疑問、小さな問題をめぐっ
て行う抽象思考や、クラインの言う「発見を教える」ことの積み重ねによる熟成をおいてほかにはな
いと考えます。
  
  ある意味で、科学というものは、あるいは人間の思考というものは、一種の遊びだということ
  を見なければならない。抽象的思考というのは、長期的な戦略や計画ができるようになるため
  に、人が直接の目標をもたない活動を行えるようになる、知性の幼生成熟である(他の動物は
  子供のときにだけ遊ぶ)

と言っているノイマンと共に研究をしたことのある科学者J.ブロノフスキーの言葉は、ゲームの理
論という今世紀最大の数学を発明をしたノイマンの業績が、幼少から大人になっても、遊び好き、お
もちゃ好きであったノイマンの、子供時代の特徴の大人になってからの現われ「幼生成熟」だと捉え
ているのは注目に値します(佐々木力は「科学論入門」で原爆製造に主導的な役割を果たしたノイマ
ンを指弾しますが)。
 こうした数学教育を幼少より受けてこなかった識者は、抽象思考ということを語るとき、その受け
てきた教育の影響で具体性を欠く。教育に携わる教師も例外でありえず、私を含め、数学の抽象概念
を気の利いた具体例と結びつけて学ばせることを苦手にする者が多く、このことがまた、具象化を教
えるのに十分でない数学教育が繰り返されるという悪循環に陥ってきたのではなかっただろうか。
 こうした意味から、数学特有の抽象思考を教えない数学教育は教育に値しないと言っても言い過ぎ
ではないだろう。